「グガン」

 先週と先々週の日曜の朝「題名のない音楽会」に往年の第2期山下洋輔トリオが復活出演した。フリージャズというカテゴリー分けとは関係なく、この人は他の誰でもない特別な存在であって、この人の演奏をテレビで聴けるなんてのは、それは一大事なのである。
 高校の頃に筒井康隆にはまり、その流れで山下洋輔のエッセイを読んで、そのあまりの面白さ痛快さに、まず活字方面から強烈なインパクトを受け、その後実際の演奏を聴いて、文章からイメージしていた通りのことがそこに現出していることに愕然とし、自分の中では天才=山下洋輔という図式が出来上がったのだが、氏は、いわゆる天才肌ではなく、個性豊かな野武士のようなジャズマンたちを束ねる兄貴分的なキャラクターと、いくつになってもチャレンジャーでありつづけるアグレッシブさ(だからこそエッセイが面白いのだ)も兼ね備えているパワフルな天才であり、その人間としてのありかたにも強い影響を受けた。ただ、実際にその演奏に直接触れる機会はあまりなく、もちろん何度か生で聴いた時は毎回圧倒されるのだが、伝説の初期の山下洋輔トリオの「名曲」には、活字でしか聴いたことのないものもたくさんある。
 今回は、タモリもゲスト出演し、今や神話と化している博多での山下洋輔一派による「タモリの発見」のくだりが、タモリ本人の口から語られるという、ファンにはたまらないイベントもあったのだが、それよりも、まさに昔「活字で」聴いていた初期のトリオの代表曲「グガン」が、森山威男と、蕨のおっちゃんことミジンコ博士こと坂田明との共演で、しかもテレビで聴けたというのは感動ものであった。「グガン」というのは、「グガン、グガン、ダバトトン、グガン、ダバトトン」というのがモチーフとなっている曲である。うむ、たしかにあれは、「グガン、グガン、ダバトトン、グガン、ダバトトン」以外の何物でもない。
 それにしても、日曜の朝っぱらから見るには濃すぎる番組であった。来週は日比谷野音で「結成40周年記念!山下洋輔トリオ復活祭」があるそうだ。まだ立ち見ならチケットはとれるかもしれないが...立ち見だと同世代は誘いにくい(苦笑)。

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下半期スタート&環境整備あれこれ

 ここ数年の仕事の状況から、1年の計を立てるのは7/1にすると宣言したのはたしか去年であったか。今年も12月1月はとてもではないが先のことを考えられる状況ではなかったので、やはり今が仕切り直しのタイミング。ただし、世の中の不景気やらなにやらで、とりまく状況は今までにまして厳しいものではある。ともあれ、今現在抱えている締切は(スルーしっぱなしの音楽関係のコンペの締切を除き)今月末という、今年に入って初めての少しだけ余裕のある時期である。

 絶妙なタイミングでiBookのハードディスクが壊れたことで、まずは月曜に買ったMacBookの環境を整備しなければならない。様々な処理が多少早くなったということはあるが、基本的にノートパソコンではCPUパワーを必要とする仕事はあまりやらせてないので、そのメリットより作業環境がリセットされたストレスの方が大きい。
 一番痛いのは、今までEGBridgeを使っていたのが、知らないうちに販売元のErgoがつぶれていたこと。去年の前半であれば、Intel版Mac用のバージョンへのアップグレードができたようなのだが、昨年で全サービスが終了し、今や会社のHPすら存在しない。やむなく「ことえり」を使っているのだが、こいつって昔にもましてバカになってません?単語を知らなすぎる。変換インターフェースが意味不明すぎる。こいつをまた一から教育しないといけないと思うと、気が遠くなる。
 それに、致命的なのは、Windowsの機種依存文字だがWordではMacでも使える文字(丸付き数字など)のうちの一部が、なぜか文字パレットからも消滅していること。具体的には、カッコ付き数字(つまり、(1)(2)などを1文字にまとめたもの)が「ことえり」から入力できない。「1」を変換すると、候補一覧の中に選択できない候補として存在するが、それを選択できるようにするメニューがどこを探しても見当たらない。(少なくともiBook G4 MacOS10.3では「ことえり」からでも入力できていた。) もちろん、Wordで使う場合は、最悪、Wordの特殊文字一覧から拾って入力することはできるが、そんな効率の悪い仕事を今後しないといけないのか。そもそも、Wordで入力したカッコ付き数字をTextEditにCopy&Pasteすると、問題なく表示されるのに、それを入力する手段が用意されていないというのは理解不能である。これは「ことえり」の問題なのか、それともATOKとかを入れても同様のことが起きるOS10.5ないしIntel版の問題なのか?
 もう1つ「ことえり」で許せないのは、全角英字を入力したいときの不便さ。今までEGBridgeでは、全角かな入力モードでabcdefgと入力すると、デフォルトでは「あbcでfg」と全角で表示されるので、aiueoを入力する時だけcontrol+lで全角英字に変換すればよかったのだが、ことえりでは「あbcでfg」と、なぜか半角英字がデフォルトになっており、子音であっても全角英字を使うときは逐一control+lで変換しなければならない。半角英字を入力したいときはそもそも英字モードに切り替えて入力するっての。
 MS Officeについては、一応2008版も買ったのだが、仕事の継続性を考えて、まずは2004版をインストール。既に仕事で使う必要があり、ちょっと使っただけで、ぶち切れた。思い出した。Wordはデフォルトで設定されている余計な機能を全部解除しないと使い物にならないんだった。ずっと昔の話だったのですっかり忘れていたのだが、余計な自動書式設定の機能を解除するメニューは環境設定には存在しない。メニューバーの[ツール]→[オートコレクト]という項目を開いて、その中の「入力オートフォーマット」というところに、その「いらんことしぃ」のアホ機能が詰まっているので、こいつらを全部解除してようやくまともに使えるようになる。
 でも、「いらんことしぃ」についてはMacもMSのことを馬鹿にはできない。10.5のFinderを使ってまず頭を抱えたのは、テキストファイルやPDF、Excelのファイルまで、デフォルトでサムネイル表示になっていたこと。画像ファイルならまだしも、テキスト中心のドキュメントなんて、開くアプリが一見してわかる方がよっぽど親切だっちゅーの。即刻問答無用でサムネイル表示機能は封印。Dockの環境も、フォルダの扱いなど押し付けがましい仕様変更がありイラっとさせられる。
 AirMacについては今まで使っておらず、今も自宅では無線LANは使っていないのだが、とりあえずAirMacを入にしてみると、ご近所の無線LANがいきなり10個ばかり見えて、愕然。もちろん、アクセスするにはパスワードが必要なのだが、こんなに電波が飛び交ってるんかいってところに愕然。あと、AirMacが原因なのかどうかは不明なのだが、初めてこのMacBookを外出先に持ち出したとき、AirMacを入にしていたら、カバンの中でなぜかスリープしておらず、本体は熱くなってるは、バッテリーは消耗してるはで、非常に不安になる。2時間程度の打ち合わせだから電源はいらないだろうと思い持っていかなかったので、あわてて出先で電源コードを借りて充電したのだが、フタを閉めてもスリープしないことがあるというのは、非常に困る。帰りはAirMacを切っておいたらそんなことは起きなかったので、やっぱりAirMacを疑っているのだが、明確な根拠はない。
 ともあれ、1週間ほど使って、仕事で使う環境は一通りは試したところなのだが、未だに慣れないのは、この数年前から採用されているらしいボタン型キーボードである。前のiBookのキーボードにくらべ、明らかにストライクゾーンが狭い。ストラックアウトで言うと、以前のものが2枚抜きが可能なパネルならば、このボタン型は、全てのパネルがフレームに囲まれている感じで、フレームに嫌われて空振りすることが非常に多いのである。(今も「空振りする」と打ったつもりが「空振りすう」になっていた...) 自分は基本的に作業環境にセンシティブなので、世間の人々が、1〜2年周期でパソコンを買い替えているというのが信じがたい。よっぽどライトユーザーなのか、もしくはよっぽど器用なのか...。

 本当は、上半期が終わって一段落したら、NoteではなくiMacの方を先に新調して、音楽制作環境を整備する予定だったのだが、その予算が無くなってしまった。LogicもLogic8に乗り換えるタイミングを逸したまま、さらにはiMacはG4なので7.1から7.2への移行すらできない状態で止まっている。Logic8を含むLogic Studio自体が、昔のLogicに比べたら格段に安くなっているので、いっそのこと新規にLogic Studioを買ってMacBookの方に先に入れてしまうか(多分旧iMacの方はスペック的に無理)とも思うのだが、ハード音源やオーディオインターフェースをどうするかとか、互換性の問題もあるので、なんとも身動きのとれない状況である。とにかく、iMacの以前の環境は当面維持しないとならないので、ここ数日で久々に立ち上げてみた。実はiMacのOSを10.4にしてから、ほとんど音楽関係の作業をやっていなかったので不安だったのだが、一応周辺ハードも含めて動作は確認できた。
 ただし、1つだけ、20年来使い続けてきたSHUREのボーカルマイクが、ついにダメになってしまっていた。作曲を始めるきっかけになった最初の作品群から、カレッジ時代やアーチストランドに入ってからのデモ類など、あらゆる場面で使ってきた、思い出のつまったマイクである。これは、「初心を忘れない」とかいいつつ、実は初心の頃から何も進歩していない私への警鐘かもしれないな。明日にでも新しいマイクを買って、もう一度自分の作りたい音楽を見直すところから始めなきゃ。

 久々に本格的な部屋の掃除もして(書類や書籍や新聞や衣類が床に散らばっておらず、来客が来ても困らない状態まで片付いたのは、何ヶ月ぶりか)、冬物の衣類もようやくクリーニングに出した。あとはこの1年半でためこんでしまったお腹の脂肪を減らす活動を再開すれば、人間らしい生活への復帰の第1歩を踏み出せるか。(1年前と比べると、頭上から降ってくる足音という新たな問題を抱えているので、部屋が片付いても一向に心穏やかな時間を過ごせないのが辛いところだが。)
 「1年の計」については、正直言って今は一寸先は闇の状態である。これから1年はとにかく手探りで前に進む時期。アンテナを敏感にして、余計な仕事を引き受けたり間違った方向に進んだりしないこと、本当にやりたいことや本当に大事なものを手放さないこと、失いかけている大事なものは全力で取り戻すこと、そういうことを心がける必要がある。去年から上半期にかけては、本を出すという少々無茶な挑戦をして、得るものもあったが失ったものも大きかった。今期は、仕事方面ではそんなリスクの大きい挑戦をするのではなく、流れが悪い中でのそれなりの戦い方をして、足下を固めないと。
(もちろん、何かケタ違いの幸運でも降ってきたら、話は別だけどねー。)

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Plastic Love

さっきから、なぜか頭の中で竹内まりやの「Plastic Love」がリフレインしているので、ふと思ったこと。

たとえ、シニカルな意味であっても、大人が「恋なんてただのゲーム」などと言っていられた時代は、今から見るとある意味幸せだったんだろうな。
当時は、なんて悲しいフレーズだと思っていたけど。

今は、大人たちは生活に追われ、子供たちはネット社会での匿名の煽り合いで消耗してケイタイで繋がってる狭い範囲に逃げ込み、青年の主張のようなつまらないHIPHOPが幅を効かせている。

自分が生きている間に、もう一度、本当に元気のある時代はやってくるだろうか。

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ハードディスクがクラッシュ

これだけ酷使してりゃ、いつかはこの日が来るとは思っていたけれど...。

昨日、もとい日付変わって一昨日からiBookのハードディスクがいきなり瀕死の重体。TeXShopで原稿書いてる最中に何の脈絡もなく突然フリーズし、再起動しようとしても途中でダウン。何度も電源を入れ直したら時々立ち上げプロセスを最後までクリアして使えるようになるが、それも長持ちしない。ここしばらくデータのバックアップをサボっていたため、とにかく仕事の成果物や必要なデータだけは救出しないとまずいので、時々息を吹き返したときを狙ってなんとか外部HDに吸い出し、また、まさに現在進行中の仕事を継続するためデスクトップ型iMacの方にTeX関係の作業環境をインストールしたぐらいの時点では、既にうまく立ち上がる確率が1/30ぐらいまで低下。最後に、AppleMailのデータをバックアップしておかないとマズいことに気付き、1時間ぐらい再起動を繰り返してようやくバックアップに成功。

本当に殺人的なスケジュールで締切が続いていた時期や、本の執筆中でなかっただけまだましだが、実は今でもいろんな意味で十分気まずいタイミングなのだ。(遅れに遅れた仕事の最後のツメの段階なので...。)

それに、この不景気の中、これから発生する出費を考えると気が遠くなる。ノート型のMacは1台はないと仕事にならないし、さっき気付いたのだが、仕事ではまだ1回ぐらいしか使っていないMathematicaのシングルライセンスはハードの故障に対するライセンスの入れ替えの救済なんて何もないらしく、それもゴミ箱行き...。本当は、ネットでのMac差別が進行する中、1台はWinマシンも持ってないとと思っていたのだが、そんな予算はどこからも出ない。本当はMacもノートではなくデスクトップの方を先にアップグレードしてDTM環境をもう一度整備し直す予定だったのに...。
あと、やはりこのマシンとともに何が失われるのかという全貌が見えてこないのが不安。Mathematica以外にも重大なものはないか...。新マシンを導入するとすれば、OSは当然10.5になるだろうが、現状の10.3用のMailからのバックアップデータが戻せるのかも心配。

あ、重大な問題を2つ思い出した。
・Classic環境の消滅
・最近のOffice for Macがダメダメという噂
OfficeはクラッシュしたiBookで使っていたライセンス用のCDからインストールすればいいかとも思うが、CPUがIntelだとダメなんだっけ?

仕事の方も転換期を迎え、一回頭をリセットしてこれからどうするかを考えないといけないタイミングなのに、こういう形で装備をリセットされてしまうと、非常にかじ取りが難しくなる。本当に勘弁してくれ...。ただでさえ、うっかり引き受けてしまったコストパフォーマンス最低の仕事で1ヶ月近く棒に振ってしまい、頭を抱えているのに。

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こんどこそW杯のピッチへ。

サッカー日本代表W杯出場決定おめでとう。
遠藤を応援している自分としては、これから1年間何もトラブルがなく今度こそ本当にW杯にピッチに立てるように祈るばかり。

それにしても、まず審判がシリアという時点で「?」なわけで。本当は、スポーツである以上、ホームだろうとアウェイだろうとだれが審判をしようと、判定がぶれてはいかんのだが、そこはサッカーの残念なところ。まあ、同じイスラム国だからダメといったら、あとは東アジアぐらいしかなく、実際のところもし東アジアの審判だとなぜかもっとアウェイになってしまうだろうというのが日本のポジションの微妙なところなのだが。同じグループのオーストラリアの審判を持ってくるわけにもいかないし。
長谷部が退場になったシーンは、実際のところ肘が本当に入ったのかどうかはよく見えなかったのだが、相手の倒れ方は演技力十分だったので、イエローぐらいは取られるかなと思ったら、線審の事後のアピール(?)でレッド...。流れの中ではなかったので、心証が悪かったのは事実だけど。ただ、自分としてはヤットのイエローのシーンが、あのアジアカップ準決勝のレッドを思い出して肝が冷えた。あのタイミングで1人減ってたらこの試合はヤバかった。なぜか巻き添えを喰らって退席になった監督のインタビューも、勝ったから笑い話。次の試合は大熊コーチが指揮を執るのか?(それはちょっとイヤ(笑))

結局、眠れずにリアルタイムで見てしまったので、録画してるBSの方ではなく、テレ朝で観戦したのだが、またまた松木氏が編集できないタイミングで致命的な言い間違いをしていて笑ってしまった。その後いろんなところで何度もリプレイされた岡崎によるゴールシーンで、「大久保!」って...。一連の流れの中で、その音声は編集できないっていう。ジョホールバルの「岡野〜」ほどではないが、バンコクの「大黒〜」ぐらいには重要なシーンで、今後何十年もリプレイされ続けるはずのシーンを、テレ朝はどう編集するのだろう。実況音声が別トラックになっていれば、あとで実況だけ差し替えるんだろうけど...。

そういえば、ここのところいろんなメディアでやたら遠藤のことを取り上げている。少年マガジンの「遠藤保仁物語」はついコンビニで立ち読みしてしまったが、たしかに今回のW杯には、遠藤の日本人好みのドラマが凝縮されているので、ようやくメディアもそれに気付いたか。取り上げられるのはうれしいが、何を今さらという思いと、ファンとしては北京の時のトラウマから、あまりメディアに期待されると逆に不安になる部分と。

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朝6:50羽田発...

 今度の日曜日から1泊で実家のある鹿児島に出かけるのだが、日曜の昼過ぎには市内にいなければならず、朝2番目の飛行機は満席だったので、止むなく朝1番の6:50羽田発という恐ろしい日程に...。空港での手続きもあり、逆算すると、5時前には家を出ないとならない。例によって昼夜が逆転していた自分としては、今週はそれをさらに後ろにずらして、最終的には土曜は夕方に寝て0時頃起き出して、録画したサッカーのウズベキスタン戦を見ながら出かける準備をする、という段取りになる予定。W杯出場が決まる瞬間は生で見たかったのだが、まあしょうがない。
 こんな時期に鹿児島に行くのは、父親の作曲発表会を聴きに行くため。もう高齢であり、以前脳内出血で倒れた以降一部身体の自由がきかないところもあって、さらには2年前には消化器系で大手術をして今も投薬で転移を抑止しながらという、現役バリバリの闘病生活者でありながら、無茶をしているので、とりあえず自分としては、その今できる範囲での集大成を見届けることぐらいはしないと。南日本放送の動画ニュースはこちら。

 本当は、5月いっぱいで自分自身の今年の一連の仕事の山を片づけて、今ごろは身体のケアをしながら自分も音楽活動に少しずつ復帰している予定だったのだが、最後のいくつかの山が越えられず、ずるずるとここまで来てしまった。自分のホームグラウンドではない分野についての原稿を、自分の言葉としてこなれた文章でストーリーをまとめるのがなかなかできない。もう1件の数学の模試の作問もまだそれなりの分量を残しており、そろそろ矢の催促がくるころである。完全に電池切れで筆が止まった状態なのだが、ここを早く突破しないと、次の一歩も踏み出せなくなる。がんばって、今日明日で目鼻をつけてから鹿児島に発たないとなあ。

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大人の走り回る足音

 ネットで「マンション 騒音 足音」とかで検索してみると、マンションで子供の走り回る足音がひどいケースに対し、損害賠償命令の判決が出た例がヒットする。この例だけでなく、多くの記事で「足音」に「子供の」「幼児の」という言葉が付随している。しかし、これには私は非常に違和感を感じる。たしかに、走り回ったり飛び跳ねたりする音が、しつこく繰り返されるのは、子供の行為であるケースが多いのだろう。でも、本当は、子供の走り回る音よりも、大人の走り回る音の方が当然ながらよっぽどうるさいのだ。

 マンションのある階にタラちゃんが生まれる前のサザエさんとマスオさん夫婦が住んでいるとしよう。サザエはドジだけど明るく元気な若奥様である。何事もキビキビしないと気が済まないたちなので、部屋の中でも常に小走りである。しかし、決して要領はよくないので、行動に無駄が多い。洗濯物を干すのに洗濯バサミやハンガーが足りずに何度も取りに戻ったり、鍋を火にかけてるのを忘れてて吹きこぼれてあわてて火を消しに戻ったりというのは毎度のこと。もちろん、買い物しようと街まで出かける時は必ず玄関でサイフを忘れたことに気付き部屋まで駆け戻るのだ。仕事から帰ってきたマスオの元に「おかえりなさーい」と玄関まで走ってくる途中で見事にすっころんだサザエを見て、「相変わらずドジだなあ」とマスオは笑っているが、そんな元気なサザエをマスオは愛しく思っているのだ。

 「笑い事じゃない。そのドジで元気で可愛い若奥様の無神経な足音のせいで、こっちは毎日地獄の苦しみを味わっているのだ」と言うのは、その下の階に住むイササカ先生である。彼は文筆家で、毎日締切に追われて自室で原稿を書いているので、仕事をするにせよ、合間に仮眠をとるにせよ、とにかく静かな環境を求めている。自由業の人間の常で、もともと朝が遅い夜型である。昼前に起き出して、午後からようやく仕事を始めても、本格的にペースに乗るのは夕方からで、それから夜中まで集中してパソコンに向かって原稿を書くのだ。
 しかし、上の階に若夫婦が引っ越してきてから、様相は一変してしまう。日中静かに仕事ができる時間帯が、上の階の奥さんがパートに出かけているとおぼしき昼の12:00〜17:00ぐらいだけになってしまったのだ。もちろん、昼間のその時間帯は、上の階からの音は無くても、廃品回収業者や謎のホットドッグ販売業者等の拡声器攻撃にもおびえなければならない。そして、そもそも彼の主戦場は夕方以降なのだ。14時頃からパソコンに向かい、ようやく筆が進み始めたと思うと、帰宅と同時に何の意味があるのか部屋をかけまわる上の住人の足音により、頭の中で組み立てられていたストーリーがガラガラと崩れ落ちていく。彼は語る。「マンションで暮らすということは、コンクリートの箱の中に閉じこめられて生活するようなものだ。そして、上の階の足音というのは、普通の声や物音と違い、箱全体が鳴る、音というより振動である。今の生活は、あたかも、そのコンクリートの箱の上に住むゴリラがいつ箱を叩いて暴れ出すかと戦々恐々としながら暮らしているようなものだ。」
 騒音で仕事が進まなくなったイササカ先生は、自ずと仕事時間が上の住人が寝た後の夜中にシフトしていくことになる。といっても、上の住人も若いので、1時頃までは平気で足音を立てている。ようやく本当に集中して仕事ができる時間となっても、それはあまり長くは続かない。夫のために甲斐甲斐しく働く若奥様の朝は早い。毎朝5時過ぎには、ベッドから床に降りる衝撃音に始まり、朝の騒音タイムが始まるのだ。そして、そこでまた思考が寸断される。あきらめてもう寝ようと思っても、不眠がちな彼は、足音が気になって眠れない。やむなく耳栓を装着し、自分の耳鳴りの音だけを聞きながら逃げるように眠りにつく。
 うるさくて仕事にならないといっても、締切はやってくる。イササカ先生は止むなく、仕事時にも耳栓を常備し、足音が始まったら迷わず耳栓を装着することにした。しかし、高性能の耳栓は、耳の穴を内側から圧迫するので、長時間装着すると耳が痛くなり,うっ血して耳鳴りもひどくなる。また、密閉され、耳栓自体不衛生になりがちなので、外耳炎が慢性化する。彼は言う。「耳栓をして生活していると、五感のうちの1つを奪われているので、あらゆる身体のリズムやバランスが崩壊しているのを感じる。特に、感情面において大きな悪影響がある。少なくとも耳栓を装着している最中に、安らかな気持ちや、『うれしい』とか『幸せだ』という感情が起こることは皆無である。これでは、人間として生きていることにはならない。足音に苦しみだしてから、音が始まると動悸が激しくなったりと、身体的変調は既に出ていたのだが、耳栓をするようになってからは、騒音が始まると同時に条件反射的に耳に血流が集まり耳鳴りがするようになった。また、長時間耳栓で生活することで、逆に小さい音にも敏感になってしまい、耳栓を外した時の騒音による苦痛がより増した感がある。」

 幸せあふれるサザエさん夫婦の生活と、悲惨極まりないイササカ先生の生活は非常に対照的だが、これが、マンションにおける足音騒音の問題の重要なポイントである。つまり、音が伝わるのが上から下へという一方通行であり、上の階の人はその足音が下にどのように伝わっているかを体感する術はなく、それがどれだけ下の階の人を苦しめているかということに一切気付いていないことが問題なのだ。この問題についてよく言われる暴論として「生活騒音はお互い様だから我慢するのが当然だ」というものがある。上の階の住人もそれなりに足音に気をつけて生活してくれていて、それでも多少は音が伝わってしまうという範囲であれば、「お互い様」というのはまさに正論なのだが、乱暴な足音をたてない努力を一切せず、「普通に生活しているだけで何も悪いことはしていないのだから文句を言われても困る」というスタンスの相手に対し、「お互い様だから我慢しろ」と言われて我慢できるわけがない。また、「上の階にも、さらに上の階があり、そこでも同じ問題があるのだからお互い様だ」というのも違う。平気で乱暴な音をたてる人は、その上の階の人の足音は静かである可能性が高いのだ。少なくとも、人の振り見て我が振り直すだけの良識のある人ならば。
 この例で、上の階の住人の例として若夫婦に設定したのも意味がある。このサザエさん夫婦で問題なのは、自分の足の下に、他の人の生活があることを認知できていないこと。ラブラブなバカップルが迷惑なのは、自分たち以外の他者がそれぞれ人格を持った個人であることを認知できずに、「自分たち」に対する外の環境としてしか見えていない点にあるが、このサザエさん夫婦も同じこと。現代社会において、たまたま隣に住んでいるだけの他人の存在をいちいち考えたくないというのは、ある意味仕方のないことではあるが、共同住宅における「お互い様」の意味は、そこを全員少しずつ我慢して、他者への配慮もして生活しましょうということなのだ。
 ただ、サザエさん夫婦にも言い分はある。そもそも、自分の足音がどれぐらい下に響くのかがわからない以上、気をつけないといけないという発想自体なかった、というものである。そこには、もっと世の中全体での啓蒙活動は必要であろうし、そのためには、「子供の足音」に限定して話題にするのではなく、足音全般がとにかく問題なのだということを明らかにすべきであろう。でも、それよりも重要なのは、実際に下の階に被害が発生している場合に、それを上の階の住人が知ることである。「実はかなり足音が響くので、少し気をつけて下さい」「それは知りませんでした。これから気をつけます」というやりとりがスムーズにできれば、問題の半分は解決する。だが、そこが一番難しい。今の世の中では、そのやりとりを本人同士が直接やるのは大きなリスクを伴う。最近も騒音が原因と思われる殺人事件があったようだが、そういう情報があると、苦情を言われた側がおびえてしまい、逆に強い被害者意識を持ってしまって話がこじれる。もちろん、騒音の被害者側は積もり積もったものがあるので、どうしても感情的になる。
 しかし、いくら困難であっても、騒音被害において最もストレスがたまる原因が「被害の存在を相手が知らないこと」である以上、それをスムーズに伝えるための仕掛けを、賃貸マンションであれば貸し手側が提供するということも考えていく必要がある。といっても、民間業者では動きようがない部分もあるので、なんらかの法整備も必要だろう。だが、そのためには、「静かに生活すること」が人権の重要な構成要素の1つであるということについての認識が現状まだまだ低過ぎる。
 「騒音については、感じ方に個人差がある」という乱暴な一言により、騒音に苦しむ人の方が社会不適応者であるかのような扱いをうけることが未だにある現状では、騒音被害で泣き寝入りせずにすむ世の中はまだまだ遠い。副流煙による健康被害が明確になったことで分煙化が進んだように、上の例でイササカ先生が自律神経失調状態にまで追い込まれたことと、上階からの騒音の問題との因果関係を明確に認め、そのような事態を回避するための仕組みを行政レベルで作るための働きかけを、医学界の方から行うというようなことでもあれば、少しは状況が変わるのだろうか。
 ともかく、この国土の狭い日本では、マンションの騒音問題というのは、国民全体のQuality of Lifeを守る為には、決して小さな問題ではないのだ。

 なお、上の例で、イササカ先生の症状が妙に具体的な理由は、ご推察の通りである。このような駄文を書くことでなんとか精神の安定を保とうとしている、まさに現在進行中の状況を打破したくとも、この不況の中なかなか出口が見えてこない。

追記:もう1つ重要な論点を忘れていた。問題が本当に認知されていれば、マンション建築において「足音が階下に伝わりにくい工法」が開発されていてもおかしくないと思うのだが...。コストがかかり普及しないということなのであれば、それこそ行政からの働きかけが必要だ。

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ヤーンの時の時

栗本薫が死んだ。
グインやイシュトバーンやリンダの物語を連れて
ナリスと清志郎のもとに旅立ってしまった。
突然不条理な終焉を迎える物語。
覚悟はしていたが共に歩んだ読者には受け入れ難い現実。

物語の世界に生きていた人だから
第一に物語の未来の消滅を悲しんでもバチはあたるまい。
もう書かなくてもいいからお疲れさまとはいわない。
向こうで好きなだけ続きを書いてくれ。

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「街の雫」

 偶然、"Trickles"という単語を見かけて、後藤次利のアルバム「CITY TRICKLES:街の雫」を思い出した。大学時代にレンタルレコードから録音したカセットを持っていたのだが、ずっとCDでの発売を心待ちにしていた名盤である。ネットで検索してみると、なんと!当時のレーベルの作品を集めた3枚組CD「Fitzbeat Years 1983-1985」として去年の11月に発売されていた! もちろん、即Amazonで購入し、それがさっき届いたところ。

 このアルバムを通して聴いたのは何年ぶりだろう。ベーシストのソロアルバムでありながら、当時の最新の電子楽器を便利な道具としてではなく音を作り込むための武器として駆使し、前衛的だけどポップで、計算された熱気が伝わってくるこの作品は、今でも全く色あせない。昔の名盤の再発とかだと、音質がひどくてがっかりすることもあるが、そんなことも全くなく、音楽がまだ希望に満ちたものであったあの頃の空気がそのまま蘇ってくる。

 このアルバムは、当時12インチ45回転のミニアルバムの2枚組という特殊な形態で発売され、1枚目はインスト、2枚目は主にボーカル入りである。エッジの効いた作品は1枚目に多いが、当時バックコーラスのスペシャリストとしてシーンを支えていた山川恵津子のボーカルをフィーチャーした2枚目は名曲が目白押しである。本人も気に入っていて一般にも評価が高いのはラストナンバー「THE NIGHT LANDING:誘導灯」だが、私が好きなのは、山川恵津子のWhisper Voiceが一番印象的な、2枚目の1曲目(今回のCDでは7曲目)の「FIRST SOLITUDE:すれ違った孤独」。当時、楽曲を単独で聴くのではなくアルバムを通して聴くことが多かったので、1曲目でその世界にぐっと引き込んでくれる作品が自分にとって大切なものだったのだと思う。

 ちなみに、インスト編の最後「URGENT:追い込まれた色彩」は、つい最近までテレビの夕方の報道番組のBGMで使用されていたので、日本中のかなりの割合の人の耳に残っているはずである。(今はあまりその時間のニュースを見ないので、まだ使われているかどうかは不明。) あと、1曲目「THE BREAKING POINT:終わりのない加速」は当時タイヤのCMで使われており、これも非常に印象的。

 久々の自分へのご褒美として、悪くない買い物。正直音楽に絶望しかけていた自分には、何かいいきっかけになるかもしれない。

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太陽の誘惑

 この週末は本当に久々のオフ。自室でもやりたいことは山ほどあったのだけど、ついつい春らしい陽気に誘われて、日曜は久々に荒川岸まで自転車でひとっ走り。
 河川敷は野球グラウンドが多いのだが、千住新橋から降りてすぐのところはサッカーグラウンドになっていて、この日もちょうど少年サッカーチームの試合をやっていた。少年チームだと、どうしても体格差が大きく、対戦していた青チームと赤チームでは明らかに青チームの方が大きい子が多かったので、見ていた間は圧倒的に青チームがボールを支配。身体が小さい子だと、キックの正確性うんぬん以前に、ボールが飛ばないので、サイドチェンジもできない、前線へのロングボールも出てこないという感じなのだ。青チームのGKは余裕こいてゴールマウスをがら空きにしてフィールドの3分の1ぐらいまで上がりっぱなし。青と赤なら普段だと青を応援するところなのだが、思わず判官びいきで赤チームを応援しながら、試合終了まで観戦。青の1ゴールしか見れなかったけど、たとえ少年サッカーでも生で見るとつい熱くなってしまうのがサッカーのいいところ。
 その後、いつものように荒川をさかのぼって、災害時ヘリポートのある隅田川と接するあたりまで調子に乗って走ったはいいが、ここ丸1年ほど全く運動していなかった鈍った足に加え、帰路がちょうど強い風に向かって走ることになり、ペダルを踏む足が重い重い。こんな体力では、いつの日か草サッカーデビューしたいという密かな野望から遠ざかる一方である。
 とはいえ、久々に屋外で身体を動かした心地よい疲労感は、ストレスフルな仕事の連続で鬱屈した神経には一番の薬であった。これからは仕事も少しはペースダウンできるはずなので、週1日はオフをとるサイクルに切り替えて、いろんな物を取り戻さないと。

# それにしても、少年サッカーを見ていて思ったのだが、気持ち悪く組織化されて、気持ち悪いチャントを大合唱しているJリーグのサポーターという人々は、一生懸命のプレーを見て自然に声援を送るスポーツ観戦の原点を是非とも思い出して欲しいもの。それだけでも十分盛り上がるはずなのに。せめてあの「俺達は−どーのこーの」というチャントの大合唱をやめてくれれば、自分も関東で行われるガンバの試合は見に行きたいところなのだが...。

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