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子供だましという言葉は子供を馬鹿にしてる

 昨日、久々の作曲のコンペで作品をなんとか提出したので、別件の仕事を棚に上げて、映画を観てきた。天気もいいし。生活時間が思いっきりずれてきた(昼夜逆転からさらに後ろにずれて、昨日は午後5時頃就寝、夜11時頃起床)ので、ここで一気に一回り遅らせる作戦も兼ねて、渋谷まで出かけて朝10時の回の「妖怪大戦争」鑑賞。
 最近、京極夏彦をよく読んでる私としては「姑獲鳥の夏」は観ていたのだが、その京極氏や宮部みゆきもプロデュースチームとして参加してる「妖怪大戦争」も観なきゃと思い、楽しみにしていた...のだが...映画ってこんなものでしたっけ?
 誰も読まないとは思うが、以下ネタバレあり。
 別に、ハリウッド映画のように金をかけなきゃいかんとも思わないし、重たいテーマがないといけないとも思わない。大仕掛けのクライマックスでスコーンと落とす、そういうのもアリだと思う。でも、ああいうオチ(小豆の件ね)は、その場でリアルタイムに理解させて笑わせないと、全く意味がない。ジイジの話が伏線になってると言うつもりなのだろうが、「だからどうなのか」という部分が意味不明である。あの「ヨモツモノ」によって、妖怪と廃棄物の機械を合体させていたのだから、加藤と小豆が合体してしまうという「蝿男」方面のオチになるのかと期待して見ていたのだが全然そうではないし、そもそも加藤があそこに飛び込んでどうしようとしていたのかが判然としない。加藤自身も「機怪」になろうとしていたのか、それとも、「ヨモツモノ」本体と合体しようとしていたのか。合体ネタでないとしたら、小豆の力で怨念が浄化されたとでもいうことなのか(それなら最初から小豆洗い最強)。なんであのタイミングで外の妖怪たちが喜んでるのかもさっぱり判らないし。
 これが、シリアスなドラマで深いテーマに関わる部分であれば、あえて疑問を残してひっかかりを作ってということも理解できるが、ここの部分は「脇役の『小豆洗い』がこぼした小豆の1粒によって世界が救われてしまう」という、映画のクライマックス全体を賭したギャグであり、その場で笑えなかった時点で映画としてはアウトである。ここで全てがぶちこわし。
 京極氏も宮部氏も好きな作家なので、あんまり考えたくないのだが、作家中心のプロデュースチームが、小説と映画の違いを消化しきれなかったのではないかと勘ぐってしまう。小説の場合、その場で何が起きているのかを地の文で言葉で説明することができる。しかし、映像の場合、台詞以外に言葉はない。映像から感覚的なことを読み取らせることは出来るかもしれないが、たとえ説明的な映像であっても、それを理解するための背景の共通理解が確立されていなければ、因果関係等を理解させるのは難しい。ここまでは映像だけで伝わるが、ここから先はもう少し説明が必要という線引きが正しくできてない気がする。よくあることだが、制作サイドの人間は、どういう設定でどういう内容を伝えようとしているかを知っているので、客観的に見ているつもりでも、どうしてもその予備知識が邪魔をして適切な判断ができない場合がある。もちろん、それはプロの仕事としてのエクスキューズにはなりえないのだが、どうもそういう次元の問題に思えてならない。
 あと、最後のつまらない大人になってしまったタダシのシーンは全く不要。大人の観客が、今の自分と重ね合わせて、帰ることのできない純粋な子供の頃へのノスタルジーを感じさせる、とかなんとかいう意図なのかもしれないが、単にいやーな気分になっただけ。冒頭と最後の方に出てくる「真っ白な嘘」の件も、全然この映画の内容と関係ない。この辺も、作品として消化しきれないままという感じ。
 なんだか、ボロクソに書いてしまったなあ。えっと、子役の主役神木隆之介クンのファンの女性とかなら、彼のかわいさだけで十分楽しめるんでしょう。あと、小ネタで笑えるポイントもいくつかはあった(その他大勢の妖怪の中に、無理やり「姑獲鳥」がいたりとか)のですが、それだけ。なんだかすごく残念な気分。

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