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騒音の質の問題と「分音」

 何を今さら、である。
 六本木のドン・キホーテの屋上の絶叫マシンの騒音問題が取りざたされている。さっきも「バンキシャ!」で、通常の街の騒音と絶叫マシンからの悲鳴を、同じ音量レベルで聞かせたときの脳波を比較し、人の悲鳴の方が強いストレスを与え、不快な感情を呼び起こすのだという実験を紹介していた。当たり前の事を実際に実験して示すのはいいのだが、問題は今回のように派手な話題性のある場合だけ取り上げられ、それが氷山の一角にすぎず「精神にこたえるような騒音」に日々苦しめられていても法律も行政も助けてくれず困っている人が全国にいくらでもいることに全く目が向けられていないことに、ついいらだちを感じてしまう。
 実は昨年、前に住んでいた場所からの引越しを決意した理由が、隣家の犬の吠え声であった。飼い主が不在で淋しくなると、何時間でもヒステリックに吠え続ける馬鹿犬が近所に2匹おり、基本的に在宅で仕事をする私としては、ストレスが限界に達していたのである。さすがに夜中まで吠え続けることはあまりなかったが、夜中に仕事をするなら昼間は寝たいのだし、昼間寝ることも仕事をすることもできないというのは、生殺しに近い状況である。
 犬の吠え声というのは、機械の稼働音や車の走る音などと違い、意志をもって何かを訴えかける音なので、バックグラウンドノイズとして聞き流すことができるような類いのものではなく、ひたすら精神にストレスを与え続ける。始末の悪いことに、飼い犬は往々にして飼い主の前ではおとなしく、飼い主不在の時に吠えるので、飼い主は犬がどれだけ近隣に迷惑をかけているのかという実態をほとんど把握していない場合が多い。そして、事がペットに関するものであるが故に、「犬が好きかどうかで感じ方も違うので難しい問題だ」等という論点のすりかえが行われ、うやむやにされることが多いのである。
 前住んでいた街は、世間ではハイソな住宅街というような捉え方をされているが、犬をちゃんと躾けることもできないくせに犬を飼いたがるイヤなプチブル(死語)が大量に住んでいる街で、市内を歩いた感じでは1区画に1〜2匹は無駄吠えをする犬がいるような状況なので、私と同じような騒音被害に耐えている人の総数は相当なものだと思われる。騒音被害を受ける側から見れば、近所のビルの屋上に絶叫マシンができるのも、隣家が無駄吠えをする馬鹿犬を飼い始めるのも、問題としては変わらない。むしろ、ドンキの件の方が、悪役がはっきりしている分まだ救いがあるかもしれない。
 騒音問題では、被害の存在を被害者側が立証しなければ行政も司法も相手にしてくれないが、実際には技術的な問題もあり、立証は容易なことではない。まして、悲鳴や犬の吠え声のように、数値として表れる音量の問題だけではなく、その騒音の質が問題になるようなケースで被害を立証するのは困難を極める。騒音問題に対する行政側からの積極的なアプローチがない限り、市井に潜在する騒音問題は、致命的な形で噴出するまで表面化することはないだろう。
 これからの時代、物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさを求めるのであれば「静かに生活する権利」というものはもっとクローズアップされるべきである。今回のドンキの問題が、特殊なケースと捉えられるのではなく、様々な局面での騒音問題(特に様々な騒音が精神にもたらす悪影響の問題)に対する認識を深め、世の中の根本的な仕組みの中に「静かに生活する権利を守る」という思想が盛り込まれるためのきっかけになってくれればよいと思うのだが...期待薄か。
 「分煙」の問題が、長い年月をかけてようやく一般に浸透してきたが、それと同じように「分音」というような発想で、あらためるべきことはいくらでもあるような気がする。

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