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「星の王子さま」サン=テグジュペリ,池澤夏樹 訳

 最近読んだ本から。
 子供の頃に、岩波少年文庫版(内藤濯 訳)は読んでいたのだが、最近新訳がいろいろ出たので、集英社文庫版で久々に読んでみた。新訳だからといって、特に大きく印象が変わることはなかったが、子供の頃にも漠然と感じていてその後忘れていたこの本に対する違和感がよみがえってきた。
 たとえば、ヘビに飲み込まれた象の絵を大人に見せても帽子にしか見えなかったけど、王子様にはすぐ分かったという逸話。これを、主人公が基本的に絵が下手であるということと、王子様が特殊な存在であることを示すための逸話として読めば別に構わないのだが、どうもこの「ヘビに飲み込まれた象」が、子供には分かるけど大人には分からないものの象徴として描かれている節があり、それが最初に違和感を覚えた点である。他人に何かを伝えるためには、土台となるなんらかの共通理解が必要である。自分の脳内にある様々な前提が相手にもあるものだと勝手に思い込んでいきなり話し出しても(この場合は絵を見せても)相手に伝わるはずがないのであって、伝わらないのは相手が大人だからではなく、自分が相手の立場を思いやることができない子供だからに過ぎない。それを、理解できない大人の方をつまらない存在であるかのように描く作者のスタンスが、子供心にも好きになれなかったものである。
 また、砂漠で故障した飛行機を必死で修理しており、それを「とても重要なこと」という主人公を「まるで大人みたいな話し方をする」と糾弾する王子様。これなどは、自分勝手な視点でしか物事を捉えることのできない、子供であることのネガティブな側面の典型だと思うのだが、物語はその後、王子様の出会ったカリカチュアライズされた「つまらない大人たち」の描写が続くことで、むしろこの王子様の主張の方が正当であるかのような流れになってしまっている。確かにここに描かれている王様やうぬぼれ男や酔っ払いやビジネスマンはつまらないことばかりを大事にしているつまらない存在だが、それは作者がそのような存在として描いたからであって、ここから読み取れるのは、自分以外の大人をこのような存在としてしか捉えることのできなかった、この作者の悲劇にほかならない。
 私自身、「子供の心を忘れないように生きていたい」と思う。しかし、ここで言う「子供の心」というのは、想像力や、世の中のいろんな物に対する好奇心を失わず、いいものはいいと思い感動する気持ちを忘れず、というようなことであって、身勝手な幼稚さのことではない。この作品が「子供の心を忘れてしまった大人のための寓話」というような評され方をしているのを見ると、それは違うだろうと思う。私がこの作品に対して感じる違和感も、多くはそのような評からくるバイアスによるものかもしれない。
 この本は、「ぼくの星はたくさんの星の中に混じっている。だから、きみはどの星のことも好きになる」という言葉に集約される一期一会の物語として、素直に読むべきなのだろう。それは、大人だから子供だからというようなこととは関係ない。

(我ながら、内容の整理されてない文章だと思うが、とりあえず。)

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