« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

ブランク

 一昨年の秋からジムに通い始めてから、初めて4週間以上もブランクを空けてしまった。今までは長くても10日ぐらいしか間隔を空けていなかったのだが、本当に余裕のない時期は仕方がないか。
 昨日で1つまた原稿の締切を乗り切ったので、今日はほぼ1ヶ月ぶりにそのジムに行ってきた。体力がどれだけ衰えてるかと不安だったのだが、とりあえず30分のランニングは同じペースでこなし、ウェイトトレーニングも特に変わりなく...と思ったのだが、サーキットトレーニングの2ラウンド目で、突然辛くなり、立っていられなくなってベンチで休憩。休めば回復するかと思ったが、まるで全身に毒でも回ったように、顔面蒼白(見てないけどたぶん)で、吐き気や悪寒もしてきて、ベンチにもすわっていられない状態。指先も震えている感じで、こりゃやばいと思い、多目的スペースまでなんとか自力で移動して、マット敷いて横になる。(軽い脳貧血ってやつですな。) 数分休んでようやく通常に戻ったのだが、やはり4週間のブランクは大きかったようだ。身体のパーツ毎には以前通りに力も出るのだが、全体として衰えているので、逆に危険。忙しくても、身体の調子を把握する上でも、1週間以上は空けないようにしないと...。(苦しんでた最中、ジムのスタッフがだれも異変に気付いていなかったのも、どうかと思うけど。)
 ちなみに、この1ヶ月で身体はかなりぷよぷよに逆戻りしてしまったのだが、筋肉が減った分、実は体重も落ちていた。これで今度は体重を増やさずに脂肪を筋肉に変えていけば、効果的なダイエットに...って、んなわけないか。
 ここのところ、食生活もかなりヤバく、締切間際で飯食いに行く余裕もないときは、まるでLのように「チョコレートで脳にカロリー補給」みたいな感じになってた。多少次の締切まで余裕のある今週は、数週間前に挫折した締切前倒し作戦を再開して、掃除洗濯入浴食事のための余裕だけは常時確保しないと、5月までの長丁場(4月後半にちょっとだけ中断期間があるが)は乗り切れない。

 音楽活動再開は、まだ先。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カントリーマアム食いたい。

 長い間普通の日記的なものを書いてなかったんで、第一声は何にしようかと思ったが、やはりこれかと。当方長期沈降中にして未だ浮上の見込みなし。今の仕事では、毎年この時期は仕方ないのだが、人に会えないのは辛い。そういえば、正月の帰省の話も書かずじまいだし、先日見た「敬愛なるベートーベン」の話とかも書こうと思いつつ...。
 とりあえず、生存報告のみ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

言論によるリンチ

 責任を持って仕事をするというのはどういうことか。それは、ただ言われたとおりのことをやるだけでも、周りの人間が喜ぶことをやるだけでもない。その仕事の最終的な目的を正しく理解した上で、自分のやっている仕事がその目的に対して適切であるかどうかということに対して責任を持つというのがこの「責任」の意味である。そして、そのためには「なんとなくこうすればいいと思った」等ということではなく、実施することとその結果との間の因果関係を把握している必要がある。それは、どんな細かいレベルの仕事であっても同じことだが、それが例えば国民の税金を使って国家レベルで行う施策を立案する立場であれば、その施策によってどのような成果が得られるかということを常に定量的にシミュレーションしておくことは必須であろう。
 言うまでもないことだが、施策が国民に与える効果を定量的にシミュレーションするためには、国民の行動についてなんらかのモデル化を行う必要がある。モデル化においては、一人一人の考え方の違いや立場の違いを全て忠実に再現することは不可能であり、行動原理を非常に単純化したモデルが用いられることになる。もちろん、そのモデルによりどのくらい現実に近いシミュレーションができるかということについては、随時フィードバックをかけて、モデル自体の精度を上げる努力も必要だが、モデル化そのものを行わずに定量的な議論をすることなどできない。
 定量的な議論が必須と言っても、定量的な議論が全てだということではない。当然のことながらその施策を実施すること自体が適切なのかどうかは、他の様々な観点から議論しなければならない。しかし、そもそもその施策に「効果」がないのであれば、全ての議論は無意味である。定量的な議論は、あらゆる議論の大前提なのである。
 それとは別に、一人一人の立場に目線をおいて、それぞれが違う立場で生きているのだということを踏まえた上でのきめ細かな施策というものを盛り込んでいくことも重要であろうが、それしかやらないというのでは、本末転倒であろう。

 ただ、その施策が解決すべき課題というものが、非常にデリケートな問題を含んでいる場合、定量的な議論がタブー視されてしまうことがある。しかし、それは非常に危険なことである。定量的な議論を抜きに、耳当たりだけはいいが実際は解決すべき課題に対してなんら効果のない施策に国民の血税をつぎ込んで、後になって無策ぶりを非難しても遅い。

 ある、非常にデリケートな問題を任された実務型の政治家が、定量的な議論を避けて国民に対する説明責任を果たさないことを潔しとせず、シミュレーションのための単純化したモデルについて触れた発言をした。その言葉尻を捕えてマスコミが一斉に非難報道を始めた。実際には「批判の声が高まっている」というようなあたかも客観的な事実を述べているかのような報道であっても、それが結局批判を煽るのと同じ意味を持つことはだれもが知っている。そして、それがデリケートな問題を扱っているが故に、一部で冷静に真意をくみ取るなどということなしに感情的な議論が暴走するであろうことも、それを対立陣営が利用して煽り立てるであろうことも想定した上で記事にしているのである。それに対して、真意は異なるということを本人が述べたとする記事も報道はされるが、一度でき上がってしまった「非難の文脈」の中での報道であるから、言い訳にしか聞こえないことも織り込み済みである。スケープゴートを祭り上げて一斉に袋だたきにする、よくある「言論によるリンチ」であるが、問題なのは、どうみてもこの人はほとんど何も悪いことをしていないという点である。唯一失敗があるとすれば、マクロな問題をモデル化して議論することと個々のケースにおける問題を切り離して考えることができない相手に対して中途半端に詳しく説明することのリスクを読み誤ったことぐらい。それが普通の意味での「悪いこと」とは明らかに一線を画していることは、ちゃんと考えれば子供でもわかること。

 そんな、火のない所に油を注いでタバコの吸いさしを投げ込むような報道に携わっているのは、書いた記事がもたらす因果関係について一切責任を持つつもりのない連中だが、ネットニュースが全盛の昨今、ニュースのヘッドラインの編集の責任の所在が不明となっているのも、構造的に報道のモラルの低下に拍車をかけている。そして、最近のネットニュースに対するmixiなどでの一般からの投稿コメントとかで、「記事の中で伝聞形式で書かれていること」と「記事の中で事実として書かれていること」と「本当の事実」の区別すらつかないまま、煽られるがままに感情的な発言を垂れ流しているのを見ると、本当にそら寒い思いがする。どんなに粗悪な発言であっても、その数が多ければそれが世論であるかのように機能してしまう。そして、理性的な声は、根拠のない感情的な議論の中で封殺されるのである。

 本当に悪いのは誰で、本当に馬鹿なのは誰で、本当に無責任なのは誰で、本当に誠実なのは誰なのか、報道の論調に惑わされずに、自分の責任で判断しよう。判断するに足る確かな情報がないなら、せめて勇気を持って判断を保留しよう。不用意な判断をしないこと、それが、自分自身が無自覚のうちに言論封殺装置に組み込まれてしまうことを回避する、唯一の方法である。

| | トラックバック (0)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »