« F1最終戦 | トップページ | サッカー3連発 »

ディベート嫌い

 ディベートってものが昔っから大嫌いである。
 筋道を立てて議論するのはいい。自分がちゃんとした根拠のもと信じていることを主張して戦うのは構わない。それでもし自分の考えが間違いであることがわかれば、ポジティブな意味で「君子豹変する」のはやぶさかではない。しかし、いわゆる「ディベート」の胡散臭いところは、自分の考えとは正反対の立場であっても、その立場が役割として与えられたら、無理やりにでも理屈を並べて、与えられた立場の正当性を主張しなければならず、議論で言い負かすことで勝敗をつけるという理不尽さにある。もちろん、自分の信念とは異なる主張の根拠を探したり、想定される反論を予想して掘り起こすという作業を行う過程で、普段自分が考えていることが独善的ではないか、一面的過ぎるのではないかということを検証し、いろんな角度から物事を見られるようになるというような教育的効果があるのはわかる。しかし、相手を言い負かして勝ったの負けたのというゲームを繰り返すという行為は、結局のところ、いかなる議論も、論じ方一つでいかようにも結論をねじ曲げることができるということ、論じることの根源的な敗北を自ら立証する行為であって、ゲームとしてのディベートに真剣に取り組んでいる人とかを見ると、非常にそら寒いものを感じるのである。
 また、ゲームとしてのディベートには、そのテクニックが目の前にある明らかな事実をねじ曲げる形で使われるという怖さもある。本来は、ディベートでは「事実認定」ではなく「価値判断」が議題として扱われるべきである。しかしながら、たとえ明白な事実であっても、それが明白な事実であるということを理解できない人にとってはディベートの対象となりうることは、地動説の例をひくまでもなく明らかである。ここで言う「ディベートのテクニック」とは、必ずしもいわゆる「詭弁」のことを指しているのではない。「説得力」というもっともらしい名前をもつ、「価値判断」の世界ではそれなりに正当性のある「力」も、それを「事実認定」の領域に不用意に持ち込むと、それは事実をねじ曲げる力となってしまうのである。
 真実を求めて論理的に思索を重ねる行為と、結論先にありきで相手を論破するために武装する行為とでは、根本的に目指すベクトルは異なり、ディベートとはまさに後者なのだ。
 ディベートなどという歪んだ形をとらずに、適切な議論の仕方や論証の仕方を学ぶ(ないし教える)いい方法はないのだろうか。少なくとも、人格形成の途上の若者がディベートという危険なゲームを行うのは怖くて見ていられないし、大学生になっても弁論部等でディベートゲームにうつつを抜かした揚げ句に、その延長で政治家や弁護士を目指すなんてのは本当に迷惑なのでやめてほしい。ともかく、ディベートなんてものに、そこから得られるいくつかのちょっとした教育的効果という以上の価値を見いだしては決してならないと思う。

 なんで唐突にこんなこと書き出したのかというと、今仕事で「立論」等という、日常ではあまり使われない単語に突き当たり、これが特定の分野では特別な意味で使われるのだろうかと調べていたら、ディベート用語としてよく用いられるものだということがわかり、関連するHP等を眺めているうちにディベートというものに対して普段感じている不信感がまた沸々とわいてきたので、心の平安のために吐き出しているのである。

|

« F1最終戦 | トップページ | サッカー3連発 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/133198/16875884

この記事へのトラックバック一覧です: ディベート嫌い:

« F1最終戦 | トップページ | サッカー3連発 »