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「12人の浮かれる男」

 久々に、筒井康隆のブログ(こういう場合、「筒井康隆氏」と書くべきなのだろうか。それだと逆に、自分と対等であるような書き方にも見えて恐れ多いので、ここではあえて敬称を付けていないのだが、非有名人の個人ブログで発表する文章というものの位置づけは微妙なので、難しい問題である。)をチェック。12/1の記事に、裁判員候補に選ばれた人がmixi等で公表してしまっている問題が取り上げられている。そう、ついに日本でも「12人の浮かれる男」の世界が現実のものになろうとしているのだ。
 この作品は、30年以上前に発表された、言うまでもなく「12人の怒れる男」のパロディとなる悪夢のドタバタ喜劇である。その後戯曲としてもリライトされ、繰り返し上演されている。内容は読んでもらえばわかる。一般市民が裁判に参加し、量刑に関して意見するなどというのは、コメディとしてのデフォルメはあるものの、本質的にこの作品の世界となんら変わりない。
 刑事裁判で争われることは、大きく分けて2つある。事実関係の認定と、それを前提とした量刑である。このうち、事実関係については、科学的根拠に基づき論理的に立証されるべきものであって、そこに、素人の判断が入り込む余地などない。しかし、実際問題として事実関係が100%立証されている状態で裁判が行われることは少ないのではないか。事件そのものとその犯人に対する怒りと、「被疑者」を明確に区別して、客観的にどこまでが明白な事実でどこからが不明な領域かを判断することなど、「善良な市民」にできるわけがない。
 そもそも、裁判員制度の目的が意味不明である。最高裁のHPを見ても、「国民に分かりやすく」「国民の視点、感覚を反映」などという空虚な言葉が並んでいるだけである。国民に分かりやすいことと、真実や正義とは全く関係はない。むしろ、分かりやすい事実に飛びつくことで、これまで幾多の「冤罪」がなされてきたことか。ネットで流れるニュースの記者が想像で書いた文章を、簡単に「事実」として受け入れてしまうような「国民の感覚」なんかを裁判に持ち込むなどということは、悪夢以外の何物でもない。
 裁判員となった者は、その評決の過程で得た情報を他人に話してはならない秘守義務を負う。それはもちろんその裁判に関係する人々の人権を守るためには当然のことなのだが、一方で、実際に裁判員制度が始まってその裏で発生するであろう悪夢のドタバタ劇について一切語ってはならないという言論統制として機能する恐れがある。日本の司法制度は、開けてはいけないパンドラの箱に手をかけてしまっている気がしてならない。

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