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「世界観」

 「世界観」という言葉を濫用するのがきらいだ。
 この言葉の本来の意味は、文字通り「世界に対する見方」、つまり、世界をどういうものとして捉えるか、どういう切り口で見るかである。それが、しばしば単に物語の舞台設定としての世界の姿という意味で、「この物語の描く世界は〜」という代わりに「この物語の世界観は〜」という言い方をされる。これは巧妙なすり替えだ。
 たとえば、SF的な架空の舞台設定の中に登場人物を放り込んで、極限状況における人間の姿を描く、これはいい。でも、そこで描いているのは「人間」であって、舞台設定自体は物語のために都合のいい設定を作者が作ったにすぎない。もちろん、その舞台設定に作者の「世界観」が反映されている場合もあるだろう。(この「世界観」という言葉の使い方は正しい。)しかし、多くの場合はそうではないし、そうである必要もない。また、実際に作者の「世界観」を反映した物語設定であったとしても、それは、その設定が作者のどういう「世界観」を反映したものなのかを分析するという文脈で語られるべきことであって、作品の設定を指して無条件に「この世界観は〜」と論じていいものではない。
 すでに言葉の意味が転じていてその物語が描いている世界の姿のことを「世界観」と呼んでいるだけだ、と言う人もいるかもしれないが、原義が完全に消滅しているわけではない以上、そこにはどうしてもプラスアルファの意味が発生してしまう。物語の設定のことを「世界観」と呼ぶことで、どんな荒唐無稽な設定やご都合主義的な設定であっても、その設定自体に何か現実世界とリンクした意味があるような根拠のない幻想を抱かせることになるのだ。それがこのすり替えの巧妙なところ。もちろん、荒唐無稽でご都合主義的な設定そのものを否定しているわけではない。それで物語が面白くなるなら全然構わないのだが、それはあくまでも「虚構」を楽しむということであって、「世界観」という言葉のトリックによって、物語世界に対する客観性を放棄するのとは話が違う。

 また、この「世界観」という言葉は、映画やアニメや小説にとどまらず、あらゆる分野で一人歩きしている。新人タレントや、新しい商品、ブランドなどのイメージ戦略全般を「世界観」という言葉で片付けてしまうのだ。「世界」も地に墜ちたものである。

 なぜ唐突にこういうことを書いているかというと、最近深夜にやっている「新世紀エヴァンゲリオン」の一括再放送ってやつを見ているからである。その名前ぐらいは知っていたが、把握しているのはメディアで流れる綾波レイのビジュアルぐらいで、今まで一切手を触れずにきた。(そもそも、最初に放送された当時はバリバリのサラリーマンだったので、水曜18:30のアニメなど存在も知らなかった。) だが、先日仕事の合間にTVをザッピングしてたらたまたまその一括再放送の初回のオープニングに出くわして、これは現代の空気を知る上での教養として食わず嫌いをせずに一度観ておけということかと、観念して見始めたのだ。(さっき録画で観たところで、26話中16話まで。)
 これを今まで敬遠してた理由の1つに、「世界観」という単語がこの作品の周辺でやたら濫用されているイメージがあった、ということがある。それが逆に作品自体にうさんくさい印象を与えていたのだ。
 実際に観てみると、たしかによくできている。なるほど、少し下の世代の人々はこういうものを観ていたのか。十代のピュアな頃にこれに出会っていたら、ハマってしまうのも、うなずける。世界を守るパイロットが14歳の少年少女でなくてはならないという無茶な設定も、謎めいた背後の設定でその無茶さ加減がうまくごまかされているので、毒性は強いだろう。主人公と同世代の子供たちが観るのと、この歳になって初めて観るのとでは、感じ方も全然違うだろうし、もはや想像の域を出ないのだけども。
 虚構を楽しむには、登場人物に感情移入できた方がいい。そして、そのためには、物語の設定に対する客観的な視点はちょっと脇において、物語世界に入り込んだ方がいい。でも、それは大人の考え方である。子供たちは、最初から物語の設定に対する客観的な視点なんてものはないところから出発するのだ。だからそこから受ける影響は直接的である。僕らの世代の「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」がそうであったように、この作品がある世代に与えた影響はかなり大きいのだろうな。

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「グガン」

 先週と先々週の日曜の朝「題名のない音楽会」に往年の第2期山下洋輔トリオが復活出演した。フリージャズというカテゴリー分けとは関係なく、この人は他の誰でもない特別な存在であって、この人の演奏をテレビで聴けるなんてのは、それは一大事なのである。
 高校の頃に筒井康隆にはまり、その流れで山下洋輔のエッセイを読んで、そのあまりの面白さ痛快さに、まず活字方面から強烈なインパクトを受け、その後実際の演奏を聴いて、文章からイメージしていた通りのことがそこに現出していることに愕然とし、自分の中では天才=山下洋輔という図式が出来上がったのだが、氏は、いわゆる天才肌ではなく、個性豊かな野武士のようなジャズマンたちを束ねる兄貴分的なキャラクターと、いくつになってもチャレンジャーでありつづけるアグレッシブさ(だからこそエッセイが面白いのだ)も兼ね備えているパワフルな天才であり、その人間としてのありかたにも強い影響を受けた。ただ、実際にその演奏に直接触れる機会はあまりなく、もちろん何度か生で聴いた時は毎回圧倒されるのだが、伝説の初期の山下洋輔トリオの「名曲」には、活字でしか聴いたことのないものもたくさんある。
 今回は、タモリもゲスト出演し、今や神話と化している博多での山下洋輔一派による「タモリの発見」のくだりが、タモリ本人の口から語られるという、ファンにはたまらないイベントもあったのだが、それよりも、まさに昔「活字で」聴いていた初期のトリオの代表曲「グガン」が、森山威男と、蕨のおっちゃんことミジンコ博士こと坂田明との共演で、しかもテレビで聴けたというのは感動ものであった。「グガン」というのは、「グガン、グガン、ダバトトン、グガン、ダバトトン」というのがモチーフとなっている曲である。うむ、たしかにあれは、「グガン、グガン、ダバトトン、グガン、ダバトトン」以外の何物でもない。
 それにしても、日曜の朝っぱらから見るには濃すぎる番組であった。来週は日比谷野音で「結成40周年記念!山下洋輔トリオ復活祭」があるそうだ。まだ立ち見ならチケットはとれるかもしれないが...立ち見だと同世代は誘いにくい(苦笑)。

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下半期スタート&環境整備あれこれ

 ここ数年の仕事の状況から、1年の計を立てるのは7/1にすると宣言したのはたしか去年であったか。今年も12月1月はとてもではないが先のことを考えられる状況ではなかったので、やはり今が仕切り直しのタイミング。ただし、世の中の不景気やらなにやらで、とりまく状況は今までにまして厳しいものではある。ともあれ、今現在抱えている締切は(スルーしっぱなしの音楽関係のコンペの締切を除き)今月末という、今年に入って初めての少しだけ余裕のある時期である。

 絶妙なタイミングでiBookのハードディスクが壊れたことで、まずは月曜に買ったMacBookの環境を整備しなければならない。様々な処理が多少早くなったということはあるが、基本的にノートパソコンではCPUパワーを必要とする仕事はあまりやらせてないので、そのメリットより作業環境がリセットされたストレスの方が大きい。
 一番痛いのは、今までEGBridgeを使っていたのが、知らないうちに販売元のErgoがつぶれていたこと。去年の前半であれば、Intel版Mac用のバージョンへのアップグレードができたようなのだが、昨年で全サービスが終了し、今や会社のHPすら存在しない。やむなく「ことえり」を使っているのだが、こいつって昔にもましてバカになってません?単語を知らなすぎる。変換インターフェースが意味不明すぎる。こいつをまた一から教育しないといけないと思うと、気が遠くなる。
 それに、致命的なのは、Windowsの機種依存文字だがWordではMacでも使える文字(丸付き数字など)のうちの一部が、なぜか文字パレットからも消滅していること。具体的には、カッコ付き数字(つまり、(1)(2)などを1文字にまとめたもの)が「ことえり」から入力できない。「1」を変換すると、候補一覧の中に選択できない候補として存在するが、それを選択できるようにするメニューがどこを探しても見当たらない。(少なくともiBook G4 MacOS10.3では「ことえり」からでも入力できていた。) もちろん、Wordで使う場合は、最悪、Wordの特殊文字一覧から拾って入力することはできるが、そんな効率の悪い仕事を今後しないといけないのか。そもそも、Wordで入力したカッコ付き数字をTextEditにCopy&Pasteすると、問題なく表示されるのに、それを入力する手段が用意されていないというのは理解不能である。これは「ことえり」の問題なのか、それともATOKとかを入れても同様のことが起きるOS10.5ないしIntel版の問題なのか?
 もう1つ「ことえり」で許せないのは、全角英字を入力したいときの不便さ。今までEGBridgeでは、全角かな入力モードでabcdefgと入力すると、デフォルトでは「あbcでfg」と全角で表示されるので、aiueoを入力する時だけcontrol+lで全角英字に変換すればよかったのだが、ことえりでは「あbcでfg」と、なぜか半角英字がデフォルトになっており、子音であっても全角英字を使うときは逐一control+lで変換しなければならない。半角英字を入力したいときはそもそも英字モードに切り替えて入力するっての。
 MS Officeについては、一応2008版も買ったのだが、仕事の継続性を考えて、まずは2004版をインストール。既に仕事で使う必要があり、ちょっと使っただけで、ぶち切れた。思い出した。Wordはデフォルトで設定されている余計な機能を全部解除しないと使い物にならないんだった。ずっと昔の話だったのですっかり忘れていたのだが、余計な自動書式設定の機能を解除するメニューは環境設定には存在しない。メニューバーの[ツール]→[オートコレクト]という項目を開いて、その中の「入力オートフォーマット」というところに、その「いらんことしぃ」のアホ機能が詰まっているので、こいつらを全部解除してようやくまともに使えるようになる。
 でも、「いらんことしぃ」についてはMacもMSのことを馬鹿にはできない。10.5のFinderを使ってまず頭を抱えたのは、テキストファイルやPDF、Excelのファイルまで、デフォルトでサムネイル表示になっていたこと。画像ファイルならまだしも、テキスト中心のドキュメントなんて、開くアプリが一見してわかる方がよっぽど親切だっちゅーの。即刻問答無用でサムネイル表示機能は封印。Dockの環境も、フォルダの扱いなど押し付けがましい仕様変更がありイラっとさせられる。
 AirMacについては今まで使っておらず、今も自宅では無線LANは使っていないのだが、とりあえずAirMacを入にしてみると、ご近所の無線LANがいきなり10個ばかり見えて、愕然。もちろん、アクセスするにはパスワードが必要なのだが、こんなに電波が飛び交ってるんかいってところに愕然。あと、AirMacが原因なのかどうかは不明なのだが、初めてこのMacBookを外出先に持ち出したとき、AirMacを入にしていたら、カバンの中でなぜかスリープしておらず、本体は熱くなってるは、バッテリーは消耗してるはで、非常に不安になる。2時間程度の打ち合わせだから電源はいらないだろうと思い持っていかなかったので、あわてて出先で電源コードを借りて充電したのだが、フタを閉めてもスリープしないことがあるというのは、非常に困る。帰りはAirMacを切っておいたらそんなことは起きなかったので、やっぱりAirMacを疑っているのだが、明確な根拠はない。
 ともあれ、1週間ほど使って、仕事で使う環境は一通りは試したところなのだが、未だに慣れないのは、この数年前から採用されているらしいボタン型キーボードである。前のiBookのキーボードにくらべ、明らかにストライクゾーンが狭い。ストラックアウトで言うと、以前のものが2枚抜きが可能なパネルならば、このボタン型は、全てのパネルがフレームに囲まれている感じで、フレームに嫌われて空振りすることが非常に多いのである。(今も「空振りする」と打ったつもりが「空振りすう」になっていた...) 自分は基本的に作業環境にセンシティブなので、世間の人々が、1〜2年周期でパソコンを買い替えているというのが信じがたい。よっぽどライトユーザーなのか、もしくはよっぽど器用なのか...。

 本当は、上半期が終わって一段落したら、NoteではなくiMacの方を先に新調して、音楽制作環境を整備する予定だったのだが、その予算が無くなってしまった。LogicもLogic8に乗り換えるタイミングを逸したまま、さらにはiMacはG4なので7.1から7.2への移行すらできない状態で止まっている。Logic8を含むLogic Studio自体が、昔のLogicに比べたら格段に安くなっているので、いっそのこと新規にLogic Studioを買ってMacBookの方に先に入れてしまうか(多分旧iMacの方はスペック的に無理)とも思うのだが、ハード音源やオーディオインターフェースをどうするかとか、互換性の問題もあるので、なんとも身動きのとれない状況である。とにかく、iMacの以前の環境は当面維持しないとならないので、ここ数日で久々に立ち上げてみた。実はiMacのOSを10.4にしてから、ほとんど音楽関係の作業をやっていなかったので不安だったのだが、一応周辺ハードも含めて動作は確認できた。
 ただし、1つだけ、20年来使い続けてきたSHUREのボーカルマイクが、ついにダメになってしまっていた。作曲を始めるきっかけになった最初の作品群から、カレッジ時代やアーチストランドに入ってからのデモ類など、あらゆる場面で使ってきた、思い出のつまったマイクである。これは、「初心を忘れない」とかいいつつ、実は初心の頃から何も進歩していない私への警鐘かもしれないな。明日にでも新しいマイクを買って、もう一度自分の作りたい音楽を見直すところから始めなきゃ。

 久々に本格的な部屋の掃除もして(書類や書籍や新聞や衣類が床に散らばっておらず、来客が来ても困らない状態まで片付いたのは、何ヶ月ぶりか)、冬物の衣類もようやくクリーニングに出した。あとはこの1年半でためこんでしまったお腹の脂肪を減らす活動を再開すれば、人間らしい生活への復帰の第1歩を踏み出せるか。(1年前と比べると、頭上から降ってくる足音という新たな問題を抱えているので、部屋が片付いても一向に心穏やかな時間を過ごせないのが辛いところだが。)
 「1年の計」については、正直言って今は一寸先は闇の状態である。これから1年はとにかく手探りで前に進む時期。アンテナを敏感にして、余計な仕事を引き受けたり間違った方向に進んだりしないこと、本当にやりたいことや本当に大事なものを手放さないこと、失いかけている大事なものは全力で取り戻すこと、そういうことを心がける必要がある。去年から上半期にかけては、本を出すという少々無茶な挑戦をして、得るものもあったが失ったものも大きかった。今期は、仕事方面ではそんなリスクの大きい挑戦をするのではなく、流れが悪い中でのそれなりの戦い方をして、足下を固めないと。
(もちろん、何かケタ違いの幸運でも降ってきたら、話は別だけどねー。)

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Plastic Love

さっきから、なぜか頭の中で竹内まりやの「Plastic Love」がリフレインしているので、ふと思ったこと。

たとえ、シニカルな意味であっても、大人が「恋なんてただのゲーム」などと言っていられた時代は、今から見るとある意味幸せだったんだろうな。
当時は、なんて悲しいフレーズだと思っていたけど。

今は、大人たちは生活に追われ、子供たちはネット社会での匿名の煽り合いで消耗してケイタイで繋がってる狭い範囲に逃げ込み、青年の主張のようなつまらないHIPHOPが幅を効かせている。

自分が生きている間に、もう一度、本当に元気のある時代はやってくるだろうか。

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