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「前巷説百物語」京極夏彦

 あの「御行の又市」の始まりの物語である。キーワードは「青臭さ」。裏の世界で割り切って生きている連中とは違い、この小股潜りの小悪党は勘定の合わないこと、すなわち世の理不尽にがどうしても気にくわない青臭さがあった。その青臭さこそが、他の悪党たちとは一線を画した道理で行動する又市たちの「仕掛け」の原点なのだ。
 思えば、妖怪シリーズの「京極堂」こと中禅寺の憑物落としにしても、その底流には物事をよりよい形に収めたいという青臭い思いがある。(ちなみに、昨年末に「邪魅の雫」まで読了。) ただ達観しているだけなら、わざわざ出張って行って憑物落としなんかしないのだ。人の心の暗部を描きただ絶望するのではなく、片や、まやかしを見せることで、片や、まやかしを落とすことで、ゆがんだ状況をより「勘定に合う」状態になんとかして持って行こうとする主人公(たち)の想いが背後に感じられるからこそ、この両シリーズは魅力的なものであり続けるのであり、その主人公の青臭さの原点を描いたこの作品は、心の闇が物語世界以上に現実世界で表出しているこの世の中に対する作家の決意表明なのかもしれない。

 この物語の舞台は江戸の町だが、あまり表立って語られることのない江戸の社会の仕組みの影の側面も背景としていろいろ描かれており、勉強になる。関わりなく生きている者から見れば、今の時代とはつながりがないと思われることでも、その歴史を背負って生きている者にとっては間違いなくそれこそが自分たちの歴史なのだろう。そういうことを一度はきちんと理解しておくことも大切。

 ところで、物語とは関係ないのだが、最近気になるのは文庫本の巻末にある「解説」。これを、明らかにその作家の本をほとんど読んだことのない人物が書いていることがとても多いのだ。そもそも、本の内容は読んでわかればいいのであって、古典でもない限り解説という物の存在意義自体が不明なのだが、どうせいらない解説なのであれば、そのシリーズをよく知っている人の当たり前の解説ではなく、初めてその作家の本を読んだ人に感想文を書かせてみる方が面白いという、編集者の思惑なのかも知れない。でも、シリーズ物の最新作で、なおかつ物語中の時系列としては、全ての発端となる物語を、この作品だけ切り離して読ませて書かせた感想文を読まされても、読者は困惑するばかりである。今回の解説の筆者が、ラストの「御行奉為」がシリーズの又市の決め台詞で、それがまさに最初に発せられた瞬間であるということを理解して書いたとは到底思えないのだ...。
 以前読んだ森博嗣や東野圭吾の本の解説では、「この人、明らかにこの作家のこと嫌いだよね?」というような解説もあり、なんでそんなものを読まされないといかんのだと憮然とした記憶がある。まあ、たまに「この人にこの本の解説を頼んだらこんな面白い文章を書いてきた」という「アタリ」の解説もあるから、編集者は当たるも八卦でいろんな人に依頼しているのだろうけど...ねぇ。

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ロックシューが許せない

 「食べにくいけどうまい」という評価が多いようだが、正しくは「味だけみればうまいはずなのに、決してまともに食べることはできないのでおいしく味わうことのできない欠陥商品」である。某コンビニで売っているロックシューの話。

 パリパリの大きいチョコ掛けシューの中にたっぷりのトロトロのカスタード+生クリーム、そのスペックだけでも「絶対にうまいはず」なのだ。スイーツ好きは期待に胸をふくらませて購入する。しかし、その甘い期待も、一口かぶりついた瞬間に確実に起こる惨劇によって夢散する。シューの固さとクリームの柔らかさのミスマッチにより、クリームは必ず横方向に噴出するのだ。それも、ちょっとはみ出す程度ではすまない。
 同じ「固い」でも、シュー全体の構造ががっちりしていて、噛んだ後も歯形の部分を除いて元の形を保つような固さなら逆に問題はないのだが、この商品の場合、上部と下部がそれぞれ固い一枚板になっており、側面が弱いので、かぶりつくと、どんなやりかたをしても歯形が入る前に上下の板に挟まれて全体がペシャンコになる。かぶりつくという選択をする以上、惨劇は免れ得ないのだ。
 これをきれいに食べるには、皿に乗せて、縦に応力をかけないよう気をつけながらナイフでシューを切って、そのシューとクリームをフォークないしスプーンに乗せて食べるしかない。(フォークで突き刺そうとしてもいけない。) しかし、この商品のコンセプトは「美味しくて、手軽に」なのだ。お手軽コンビニスイーツのシュークリームが、「袋のままかぶりついてはダメ」などというのは、明らかに商品としてスペックミス。そんなお上品に食べたいと思ってこれを購入する客はほとんどいないだろう。
 でも、それは商品開発の時点で真っ先に判明していたはずだ。それでも販売されたのは、それが「確実に売れる商品」だからである。欠陥商品なのに売れる理由は、その期待感の高さにある。この手の期間限定商品は、コンビニ利用者の中の甘いもの好きが1回ずつでも購入すれば、十分元が取れるはずだ。また、通常であれば、期待感が高く満足感が得られなければリピーターとはならないと思われるが、この商品の場合必ずしもそうではない。それは、期待感はあくまでも「おいしさ」についてのものであり、満足感が得られないのは「食べるのに失敗したから」と認知されるため、「おいしさ」に対する期待感は損なわれないからだ。むしろ、「次は失敗しないように食べよう」ということが動機となりリピーターとなるケースもあるだろう。どうやってもうまく食べられる代物ではないということに気づくまでに、2〜3回は購入してしまう人も多いはずだ。
 かくいう自分も、最初のチョコロックシューと、次に発売されたイチゴ味版を1回ずつ購入してしまい、2回とも辛酸をなめた。甘い物を食べたい時に、この見た目からくる誘惑はそれだけ強烈なのだ。だからこそ、売れればそれでいいというツメの甘い不誠実な商品開発をなおさら腹立たしく思うのである。別にPL法を振りかざすつもりはない。ただ、スイーツといえば基本はもてなしの心だろう。確実に食べるのに失敗するようなものを商品として世に出すことは、商品開発に関わった心あるパティシエがいたなら必ず反対したはずだ。(ちなみに、イチゴ味ではない最初のものは「的場浩司プロデュース」と銘打たれていたが、彼がこの商品の不具合についてどう考えているか、聞いてみたいものである。)

 まあ、「食い物の恨み」でもあるのだけど(苦笑)、これに限らず、今の世の中、謳い文句となるアイディアだけを重視しその商品本来の絶対外してはならないポイントを確実に外しているインチキ商品があまりにも横行している気がする。

(ところで、なんで今これを書こうと思ったんだったっけ?うぅ、思い出せない...)

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Twitterを始めてみる。

 とりあえず、一度は試してみるのもいいかと、数日前から始めました。
 今のところ、ただの手軽に書けるミニブログですが。ここのサイドバーにも貼り付けてます。mixiとかにも似たようなサービスがありますが、閉じた世界でやるよりはどうせ試すなら本家で堂々とこっそりやろうということで。どう使うか思いつくのが先か、飽きるのが先か...。

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「孤宿の人」宮部みゆき

 帰省の往復の飛行機で読んでいたのは、宮部みゆきの時代小説「孤宿の人」。いやあ、この人はうまいね、本当に。いろいろ思うところのあった帰省をはさんで読んだということもあるのだけど、ラストのあたりでは涙腺の決壊したジジイと化してしまいました。

 この人の作品は人に対する愛情に満ちているのだけど、魅力的な登場人物たちに必ずしも(現世での)ハッピーエンドは用意されていないわけで、冷静に考えると物語の作者というものは、どれだけ残酷な神なんだとも思います。この作品でも、一番感情移入されるであろう2人の人物にああいう結末が用意されていますが、物語を設計する冷徹で緻密な構成力と、組み上げられた世界をあらためて愛情豊かに描く表現力を併せ持っているからこそ、この作者は傑作を生み出し続けることができるのでしょう。
 この作品では、主人公の少女を中心とした物語の背景として、ある町でおきた民衆による騒乱〜大火という悲劇が描かれています。一人一人はそんなに悪い人たちではないのだけど、ちょっとした掛け違い、ちょっとした無理解、愚かしさ、身内意識などが積み重なってねじ曲がって誰も望んでいない悲劇を引き起こすプロセスは、「悲劇」の一つのステレオタイプとはいえ、匿名での尖った言葉の飛び交う今のネット社会を見ると、実は非常に現代的なテーマでもあります。

 当代きっての語り部の名作、全ての人にお勧めです。

 実は、昨年買って読まずに放置している本が2冊あります。
 1冊は、グイン・サーガの最新刊にして最終巻。他の巻と比べ半分ぐらいの厚さの本を手に取ったとき、その意味するところにあらためて寂寥の思いが募り...。栗本氏の死後、この前に既に3巻の新刊が発売されており、それも読み始めるまで少しためらいがあったのですが、最後まで見届けないとと思い、ここままで読んできました。が、その3巻の中でも登場人物の運命は大きく転換し、これからどうなっていくんだろうという本来なら期待感となるところが全て喪失感となり、そして迎えた最終巻。未だ、最後のページをめくるに至るプロセスを踏む勇気が沸いてきません。もう少し、自分の心が弱っていないときに、穏やかな気持ちで読みたいと思います。
 もう1冊は、東野圭吾の「赤い指」。この人のミステリーは一通りは読んできているのですが、近年は「殺人の門」「レイクサイド」「さまよう刃」といった、ただひたすら悲惨で、救いのない物語、そしてそれがいつ自分の日常に降りかかってくるかわからないのだということを認識させようとするある種の社会派ミステリーが多くなってきています。でも、さすがにそういう小説を読むのはもういいかなと思うようになってきました。同じように救いのない事件は現実社会でも次々と起きています。それを他人事とは思わずに自分の周辺に置き換えて考えることは大切だと思いますが、小説という形でその悲惨さだけを繰り返し追体験するというのは、不必要な「不幸の拡大再生産」のような気がするのです。「容疑者X〜」はそれでもなんとか読めたのですが、つい今までの習慣で文庫の新刊が出たので条件反射的に買って、途中まで読んで後悔したのが、この「赤い指」。そんなに読書に時間もとれない今、気が進まない本を読むのももったいないので、読むのをやめました。(もちろん、作品としてダメという意味ではなく、私個人が勝手に食傷しているだけです。)

 それにしても、一週間ぐらいのんびり読書に専念できるような贅沢な時間はいつか来るのだろうか。今はあまりにも穏やかさから程遠い...。

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彼らは兵士じゃない

 サッカーの話ばかりでアレなのだけど、これだけは言っておきたい。
 日本サッカー協会は、今すぐサヌアの若き日本代表を帰国させて下さい。

 代表の公式戦だからといって、外務省が一般市民に渡航の自粛を促しており、英米大使館が閉鎖したような状況の国に、将来のある才能にあふれた若者たちを、日本代表の名のもとに送り込むというのは、常軌を逸している。AFCがどんな判断をしようと知ったことではない。たとえそれでアジアカップの出場機会を失ったとしても、彼らこそが日本サッカー協会の、日本のサッカー界の宝なのであって、AFCの言うがままに日本サッカー協会が彼らの身の安全を放棄してどうする。イエメンの他の地域に比べれば、サヌアの治安は確保されているといっても、西側大国の代表なんて、本気のテロリストにとっては格好の標的ではないか。まして、試合中ピッチ上の選手は広いグラウンドの中で全く無防備なのだ。AFCの体質を考えれば、AFCの判断なんて、サヌアの治安当局が大丈夫と言っているからその面子を立てて予定通り試合を行うことにすると言ってるだけだろう。平和ボケの過剰反応と言うなかれ。平和ボケしているのは、あまりにも鈍感な日本サッカー協会の方である。

 かれらはスポーツ選手であって、兵士じゃない。彼らの命より重い勝ち点などありはしない。

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時差帰省

 これから実家へ。
 航空券の都合で、3泊もすることになってしまったので、そのぶん、昨日までは働いてました。格安チケットで時差帰省する不況下のフリーランスの心得としては、やむを得ないこと。今回は冬休みの宿題が終わってないかわいい姪たちには会えないようで、まあそれもしょうがない。闘病中の父への顔見せ興行。

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今年も。

 今年も、天皇杯で年が明けました。
 世の中も私の周辺も不景気な話が多く、なかなかめでたい気分にはならないのですが、素晴らしいプレーで少しだけ我々を幸せにしてくれるスポーツ選手には、感謝、です。優勝のガンバ、今日の遠藤は特にすごかった。今年はW杯でも飛躍を。

 先の見えない今、忍耐の年なのか何かを変える年なのかわからないけど、笑顔になれる時間が少しでも増えることを祈って。

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