入稿〜帰省〜バレエ

 年末からバタバタしていた2月発売の本の原稿は、1/5の朝にようやく表紙デザインも含め完成し、無事入稿。今は白焼校正紙や表紙の試し刷りも届き、15日頃までに校正済みの最終原稿を入稿したらいよいよ本刷りである。白焼は、16ページずつの実物サイズの冊子になっているので、実際の本の形にさらに近づいてきて、なんかうれしい。これから細かい表現やタイプミスの修正は入るものの、現状でもそんなにクオリティは低くはないので、ともかく出版するために必要な最小限のデータは吐き出し終えたという安堵感で、今はちょっと腑抜け状態である。今回は組版を自分で行ったので、全てのデータを抱えたままの状態でギリギリまで図版類を作成していた1/4までのプレッシャーは半端じゃないものがあった。精神的なコンディションだけでなく、頭痛、めまい、不眠、全身神経痛、指先のしびれなど、体中に変調をきたしていても、寝込んでしまったらアウトというのがさらにプレッシャーになるという悪循環。しかし、脱稿してみると、体調不良のほとんどがそのプレッシャー自体が原因だったことがよくわかる。ともかく、心臓と脳の血管が最後まで持ってくれたのが、なにより。

 5日の入稿後、今さらながら冬支度の買い物に出かけ、6〜8日は鹿児島の実家に帰省。この歳になると、いろいろ重たい話もあるのだけど、可愛い姪たちの成長に目を細め、初詣やら親戚への挨拶やら墓参やらを済ませ、夜中まで母の愚痴を聞き、父のパソコンのサポート業務をさせられ、なんだかんだとそれなりに有意義な時間を過ごす。父は、病気と闘うのではなく、あくまでも自分の音楽活動で闘い続けているようで、それはそれで大変だけどよいことなのだろう。

 8日は、午後の飛行機で帰京後、部屋に荷物を置いて着替えてそのままBunkamuraオーチャードホールでのバレエ観劇初体験に友人と出かける。ひょんなきっかけで入手したチケットは、レニングラード国立バレエの「ジゼル」。草刈民代客演の回ではなかったので、時間差で買っても連番が取れたぐらいに空いてはいたのだけど、おかげで非常に良い席で新年にふさわしい素晴らしい物をみせてもらった。生のオーケストラの演奏に、個々の踊り手の繊細かつダイナミックな動き、そして、舞台を大胆に切り取る空間芸術としての群舞。バレエなんて子供の頃にテレビで見て退屈だと思った記憶しかなかったので、本当はこういう芸術だったのだとあらためて認識。
 年末は忘年会の類いも一切断って原稿書きをしていたので、観劇後の新年会は約2ヶ月ぶりぐらいのアルコール。(実家でもまだ体調が戻ってなかったので、酒は控えていたのだ。)

 そんな感じで(ガンバの天皇杯制覇に始まり?)久々にポジティブな要素の多い年明けになったのだが、さすがに昨日今日は電池切れを起こしてダラダラと過ごしてしまった。(おかげで、読みかけだった宮部みゆき「日暮らし」は読破できたけど。心に染みる部分の多いこれまたいい作品。)本当は今月はこれからが大変。本の締切のために先送りにしていた全ての仕事を自転車操業で乗りきっていかないといけないのだ。それに加えて、本の出版に向けてもう一押しやっておきたいこともいくつかあるのだが、まずは、明日締切の仕事が、全然進んでない...ヤバイ。これからもう一度潜伏モードに入って、次に再浮上できるのはいつだろう。(今年はなるべくこまめに浮上したいとは思うのだが。)

 さて、再び現実に戻るか。


追記:「ラングレーの問題にトドメをさす!」(2/172/25発売)の価格が¥2,700(+消費税)に決定。がんばってコストを押さえて、なんとか¥3,000以下の価格設定にこぎつけました。(発売日が2月25日に変更になりました。2/15記)

追記2:鹿児島城西が高校サッカーで決勝に進出したようである。父の書いた校歌は放送で流れるのだろうか。

追記3:仕事上の期の始めは、今年も7/1の予定。2008-2009シーズンの上半期は本を一冊仕上げたので、下半期はまずはレギュラーな仕事をがんばらねば。

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A・C・クラーク

 A・C・クラークが亡くなりました。90歳なので、大往生ではあるでしょう。SF界の巨星。クラークやアシモフやハインラインといった本流SFというよりは、その影響を受けて日本で独自に発展した「日本SF」に少年期に強い影響を受けた自分としては、ルーツのさらにルーツという感じの存在。残した小説群の存在も大きいのですが、世界的に与えた影響の大きさといえば、どうしても映画と小説が同時進行で制作された「2001年宇宙の旅」が挙げられます。あの映画が公開されたのが40年も前だということが驚きです。(その時、クラークは既に50歳だったのですね。)
 クラークが夢想したほどには宇宙開発は発展しないまま2001年も過ぎ、異常なほどに肥大したネットワーク社会により逆に閉塞感に見舞われている今の人類の状況を、晩年のクラークはどう見ていたのでしょう。

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国際子ども図書館

 予定が変わって時間に余裕ができ、週の当初の天気予報も外れていい天気なので、なにかいい展示をやってないかとノープランで上野公園に出掛けた。国立博物館でダ・ヴィンチについての特別展をやってたので、行ってみると、明日までということもあり長蛇の列ができていて、挫折。代わりに、前から気になってた「国際子ども図書館」に行ってみた。

070616_1 3階の「本のミュージアム」で今やっている展示は、「大空を見上げたら−太陽・月・星の本」というもの。太陽や月等にまつわる伝承や神話を分類し、それを題材にした物語や絵本が展示されている。基本的にガラスケースの中なので、手に取ることはできず、特定のページを開いて展示してあるもの以外中を見ることはできないので、本の雰囲気を眺めるだけなのだけど、子供向けの本って、内容はともかく、本の作りが自由でいいなあ。
 1階には、子供向けの本を集めた閲覧室がある。いろんなジャンルのさまざまな事象を子ども向けに解説した本がたくさんあるのを眺めながら、子供向けと言っても、自分も知らないことはいっぱいあるのだろうなと思う。歴史や地誌などのように知識を蓄える方向の勉強からはずっと逃げ続けて、数学やソフトウェア等「考える」事に重きを置いた世界に偏って生きてきたので、思いのほか物を知らない。この部屋の本を片端から読んでも、結構楽しいかもしれない。

 ただ、今日のこの部屋でのお目当ては絵本のコーナーである。子供の頃に読んでいた絵本がないかと眺めていたら、目に飛び込んできたのが「こねこのぴっち」。いやあ、この絵のテイストとか、無茶苦茶懐かしい。ぴっちがうさぎ小屋に閉じこめられて夜を迎えてしまい、金網の外で夜の動物達が目を光らせてるところの絵なんて、子供の頃本当に怖かったんだろうな。定番の「ひとまねこざる」とかも思わず全部読んでしまった。他に、非常に漠然とした物語の印象だけが残っているものがあって、それらしいものを探したのだが、どうやら同じ作者の2つの絵本が記憶の中でごっちゃになっていたようである。レオ=レオニという人の、「スイミー」と「フレデリック」(翻訳は谷川俊太郎)。断片的な記憶では、「小さい魚が主人公」「『アリとキリギリス』の逆のようなおはなし」というものだったのだが、「スイミー」の主人公が小さな魚で、「フレデリック」の主人公は、冬ごもりの準備の時に働かずに蓄えたイメージで冬ごもり中のみんなの心を豊かにするのねずみであった。たしかにどちらの絵本にも記憶にある場面がいくつかあったので、両方とも子どもの頃に読んだのは確か。大人の目線で読むと、結構説教臭かったり、押しつけがましさが鼻につくのだけど、多分子供のころは、作者の意図とは関係なく、ただその主人公たちがありありとそこにいたのだろうな、と思う。

070616_2070616_3 1階には、テラス席のあるカフェテリアがあるので、心地よい陽射しを浴びながらちょっと読書タイム。持っていた本が、その場にそぐわない「後巷説百物語」だったのはナイショ。(まあ、上野の森だと考えれば、別にそぐわないこともないか。)
 いつもとは違う空気を呼吸できるスポット。もちろん、騒がしい子供がいる可能性もあるけど、そもそも子供が主役の場所なので頭にもこないし、今日みた限りではちゃんと本の好きな子供たちが中心で、雰囲気は悪くない。

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ベルギー王立美術館展

 オフの最後は、やっぱり芸術の秋ということで、久々に美術展に行こうと上野へ。ダリは数年前にも「ダリ展」としてやってたのに行ったので、今回は国立西洋美術館の「ベルギー王立美術館展」へ。
 聖書や神話の逸話に題材を取った作品や、妙に教訓めいた作品、ひたすら写実的な作品とかは、正直言ってあまり面白くなかった。それぞれの作品の時代背景や技法の推移などをちゃんと理解して鑑賞すれば楽しめるのだろうが、ベルギーの美術史全体から幅広く集められた展示なので、全体として説明不足で、音声ガイドも借りなかった(←これはあまり好きではないのだ)ので、ピンとこないまま終わってしまったのは残念。途中、展示フロアのイスに置かれた今回の展示の図録で、今まで眺めた作品をもう一度解説付きで見たら、そっちの方が面白くて、しばらく休憩がてら図録を読んでいたのだが、それはなんだか本末転倒な気も...。
 そういう中でも、一番印象に残ったのは、ルネ・マグリットの「光の帝国」。年代が近い方が自然に受け入れられるのは当然かも知れないが。構図のアイディアも明確だし。あと、フェルナン・クノップフの「シューマンを聴きながら」も、妙に記憶に残っている。(勝手に「頭痛にバファリン」というサブタイトルを付けたのは内緒。)
 朝から歩き回っているので、結構足が棒になりながらも、常設展まで一通り鑑賞。帰り際には、国立で買えなかったたい焼きの代わりにベルギー王室御用達のお菓子を購入。(なんか違う?)

 これで、ひとり上手な3日間のオフは終了。一番の収穫は...昼間起きている生活にとりあえず戻れたこと。(それかい!) 問題はこれをいつまで維持できるかだな。

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北斎展

051116_1 外の陽射しがあまりにも気持ち良さそうだったので、仕事を放り出して上野公園に出かけた。美術館や博物館が立ち並ぶエリアに自転車で行けるという地の利を活かさない手はないので、開催されている特別展はなるべく見に行こうと思っているのだが、多忙な時期のあとジム通いを始めたこともあり、しばらくご無沙汰していたのである。公園の並木も、もうすっかり秋深しという風情である。
 今日は、何も下調べもせずに出かけたので、公園内の看板を物色する。東京都美術館では「プーシキン美術館展」をやっていたが、西洋絵画を見たい気分ではなかったので却下。国際子ども図書館という所でやっている国際絵本原画コンクール入賞作品展には非常に魅かれたのだが、残念ながら第3水曜日はちょうど休館日。この「国際子ども図書館」という存在自体にも興味があるので、次回は是非行かねば。
 というわけで、本日のコースは東京国立博物館の「北斎展」に決定。

051116_2 なんなのだろう、この圧倒的なバイタリティは。人気浮世絵師というのは、当時としては大衆娯楽の中心にいるスーパースターだったのだろうが、すごいのは90歳で没するまで約70年もの長き間第一線で活躍し続けたこと。木版画である浮世絵の原画を描く絵師であり、肉筆画を描く画家であり、イラストレーターであり、漫画家であり、プロデューサーでもあった。世俗の真っ只中で磨き続けた芸風はポップなセンスに満ちあふれており、大胆かつ繊細でヴィヴィッドな感性も、また技術的にも、齢を重ねる毎に枯れるどころかパワーアップし続けてている。「画狂老人卍」という画号を用いた最晩年の肉筆画は本当に素晴らしい。
 今回一番気に入ったのは、その最晩年の「柳に烏図」という肉筆画。風になびく柳の枝に、風の中を舞う14羽の烏を流れるように配した大胆な構図。画題からしてモノトーンな色彩だけに、なおさらその構図の素晴らしさが際立っており、絵の前に立ったときはそこから何か異世界が沸き立ってくるような錯覚を覚え、しばらく動けなかった。もちろん、構図だけでなく、ディテイルを描く繊細な筆致も素晴らしい。この作品は今回初公開らしいが、これを見られただけでも行った甲斐があった。
 晩年になっても、自らまだ成長過程であると言い続け、その通り「まだその先が見たい」と思わせるような作品を死ぬまで作り続けた北斎。この希代の大天才とは比べるべくもないが、生きていく限りは、生臭く欲を持って生きていきたい、そういう思いを充電させられた、そんな展覧会であった。

 ちなみに、今回は、出展数も非常に多く、また人気が高く入場者数も多いため、全部見るのには結構時間がかかり、夕べから寝ていなかった身には正直きつかった。これから見に行かれる方は、時間と体力の余裕のある状態で臨むことをお勧めする。なお、展示会場は大きく2つのブロックに分かれており、私は年代順の後半から先に見た。初期の作品は習作期であり、どちらかというと後半の方が面白いのだが、どうしても展示の最初の部分が一番人の流れが滞る傾向にあるので、そこで無駄に疲れてしまう前に、「富嶽三十六景」や最晩年の作品群を含む後半を先に見たのは正解であった。

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「正しい」という言葉

 今TVをつけたら「日本語ボーダーライン」という番組をやっているが、そこで「正しい送り仮名はどっち」とか言ってる。ちょっと待て。こいつは今何をもって「正しい」と言ってるんだ?ちょっとでも本を読む人ならわかるはず。送り仮名なんて、作家によっても人それぞれくせがあり、必ずこれが正解なんて決まってない。もちろん、学校教育の都合上「教える時はこれで教える」というのはあるだろうが、それを「正しい」という言葉にすり替えてしまうのは大間違い。

 念のため、御上がどう言ってるのかをネットで調べてみた。今学校教育等で基準になっている送り仮名の付け方は、昭和56年内閣告示第3号「改正 送り仮名の付け方」で定められているようだが、その前書きには次のように記されている。

1.この「送り仮名の付け方」は、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送など、一般の社会生活において、「常用漢字表」の音訓によって現代の国語を書き表す場合の送り仮名の付け方のよりどころを示すものである。
2.この「送り仮名の付け方」は、科学・技術・芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。
3.この「送り仮名の付け方」は、漢字を記号的に用いたり、表に記入したりする場合や、固有名詞を書き表す場合を対象としていない。

 この前書きを見ても明らかな通り、この内閣告示においても、このルールに則った表記のみが正しくて他は間違いなんて一言も言ってないのである。もちろん、このルール自体は概ね世間における多数派の用法通りではあるので、何のポリシーもなくわざとこの基準から外そうと不自然な送り仮名を使うのはお勧めできないが、別にどちらでも構わないようなものについて、この基準から外れているから「誤り」と決めつけるのは全くのナンセンスである。実際にはある程度の幅をもって一般に許容されており、その範囲内でどういう送り仮名の付け方をするかによって、文体の見た目の雰囲気も変わってくるという類いのものだと考えるべきであろう。
 誤解してはならないのは、これはいわゆる「ら抜き言葉」の問題や、2ちゃんねる等を発信源とした愉快犯的意図的に誤字誤用を定着させようとする動き等とは全く別次元の問題であるということである。これらは日本語の崩壊というカテゴリーで語られるべき内容だが、送り仮名の問題は、そもそも従来の日本語において明確なルールはなかったものについて、教育や行政上の便宜のために決めた基準で「正しい」「誤り」という線引きをすることが許されるかという話である。近年テロップの濫用により、バラエティ番組等では1分に1回ぐらいの頻度でひどいワープロ誤字を垂れ流し、日本語の破壊の最先鋒となっているTVが、一方では「この問題では何を基準に正解とするか」ということも示さずに、便宜上の基準に外れたものを「誤り」として切り捨てるような番組を流しているというのは、なんとも片腹痛い話である。
 自分もある予備校で作問の仕事をしているので気になるのだが、試験問題であれクイズであれ「正解」「不正解」と白黒をつける際には、出題側には重大な責任がある。ずれた解答を「正解」としてしまえば、歪んだ認識を定着させてしまうし、複数の正解が可能な問題で的確な答えを「不正解」としてしまえば、柔軟な思考を封殺することになってしまう。今回の場合は、役所が便宜的に決めたルールの例外を切り捨てることで、文化としての日本語の広がりを封殺してしまっていることになる。こういう番組を、正しく批判的に見ている人なんてほとんどいないだろうなと思うと、そら寒い気分になる。

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