2011

今年を簡単に総括なんかできません。

日本の歴史においても、自分史においても、今年がどういう年だったかはもっと長いスパンで評価しないといけない気がします。

個人的には、震災がなくても、人生の大きな転換をせまられ、厳しい条件の中もがき続けたまま今年が終わろうとしています。その中でもようやく決断をして一歩踏み出せたこと、これから一歩踏み出そうとしていること、まだ腹をくくれず踏み出せずにいること、棚に上げたままの大きな荷物、等々、いずれにせよ全てはこれから。

日々の愚痴(笑)は主にツイッターに垂れ流しているので、ブログなどはほとんどご無沙汰になっていますが、来年はいくつかの目に見えるポジティブな「一歩」を踏み出して、こちらでも報告できることが多くなればいいなと思います。

歯を食いしばって真面目に生きてる人たちに、幸多からん2012年となることを祈って。

#今年は、「サッカーファンとしての自分」だけは、とてもポジティブな一年でした。自分以外の何かを応援する自分というものを持っておくことは、時に自分自身を助けるということも実感した2011年でした。

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全てのデザインには意味がある

 たまたまTVをつけたら、NHK教育の「デザインあ」という番組をやっていた。その中で流れていた「じょうろ」のデザインについてのショートアニメーションが非常に示唆に富んでいた。

 じょうろの注ぎ口から水がちょろちょろとしか出ないのを見て、もっとドバッと出た方が効率がいいと考えて、注ぎ口自体をなくしてしまう。すると、水は勢いよく出るようになったが、その勢いで花を痛めてしまう。そこで、花を傷めないためには水を少しずつ注げればいいと考えて、注ぎ口をつけると、水の勢いの問題は解決した。でも、注ぎ口を取りつけた位置より下の水が残ってしまい、それを出すにはじょうろ全体を90度傾けなければならずこれは不便だ。そこで今度は、注ぎ口の根本を本体の低い位置に設置してみると、水が残る不便さも解消された。よし、これからはこのデザインにしようと言って、今あるじょうろを見てみると、実は最初からそのようなデザインになっていた、というお話。

 じょうろややかんに注ぎ口がついているのはみんな知っているが、それが本体の一番下の部分に接続されていることなんか普段だれも意識していない。デザインのポイントとして意識されることもなく、当たり前すぎてわざわざ仕様書に書くまでもないが、「理由があってそうなっている」ことが、身の回りのあらゆる物の中に山ほど存在する。困るのは、なにか新しい機能を追加したり、見た目のデザインを刷新しようとしたりする際に、既存のデザインの意味のあるポイントを意識化できない人が設計に携わってしまうと、「カッコイイけど水が注ぎにくい欠陥じょうろ」のような物を世に出してしまうことがあるということ。購買意欲を喚起するような新機能をやたら盛り込んだ挙げ句、先人の知恵により改善を重ねてきた本来の機能における使い勝手の良さが全て失われているようなダメデザインも今の世の中にはあふれている。

 これは、物のデザインの話だけではなく、組織のデザインやシステムのデザインでも同じ事。何か決められたルールや手順があるけど、それに何の意味があるのかよく分からず、規則に従いルールを守らせようとする側の人に訊いてもその意味を説明できないようなことがある。それを、無意味なルールとして簡単に排除してしまうのはとても危険だ。実は、普段はほとんど意識化されないなんらかの理由があって存在している手順であって、それが失われるとどこかに著しい不便が生じるのかもしれない。
 たとえば、レジの前に不要レシートを捨てる箱が設置してあって(これはいい)、最初から客にレシートを渡そうとせずに客の目の前でレシートをその箱に捨ててしまうバカ店員(これはダメ)がいるようなコンビニでは、そもそも何のためにレシートを渡すというシステムが存在するのかを店側もきちんと理解した上で、店員にもその意味を理解させないといけない。小学校では、自転車が車道では左側を走らないと危険である理由をきちんと教えないといけない。どんなデザインにもルールにも、多くの場合何か理由があり、それが形骸化していると勝手に判断して無視する人の行為こそが、結果的にそれを形骸化させていることが多いのだ。

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在宅医療と日本の活気を守るために、輪番停電ではなく徹底節電で対応を。

 未曾有の災害。それについて今さら私一人には何も語る言葉もありません。ただただ、今も被災地で苦しんでおられる方々の無事を祈り、救助活動をしている方々にエールを送り、そして原発の状態がこれ以上悪化せずに無事停止してくれることを祈るだけです。

 そんな中自分は全く健康で、何も被害を受けずに、今はほぼ安全な東京にいます。

 今日から、東京電力エリア内で輪番停電が始まります。私個人としては、一日の半分停電の日々がこれから数ヶ月続こうが、それで仕事が全くできなくなるわけでもなく、被災地におられる方のことを思えばその程度の負担は負担とも言えません。私個人にとっては。

 でも、停電というものは、健康な者にとってはなんともなくても、生きていくのに電気を使う医療器具が必要な人たちには、絶望的な負担をかけることになるということを忘れないで欲しいのです。

 今回の地震がどれだけ大変なことだったか、被災地がどんなにひどい状態になっているかは、全ての国民が知っています。特に、実際に(高々震度5程度ではありますが)揺れも経験し、被災地の中心を距離的にも近しく感じている関東エリアの人間にちゃんと指針を示せば、相当に身を削るレベルの節電であってもみんな全力で取り組むはずです。もちろんそれは、(寒冷地を除き)時間帯によってはエアコンは一切使わないとか、照明は1/3以下にするとか、かなり徹底したものでなくてはなりませんが、輪番停電で生活が成り立つならば同じ量を自主的に削減できないはずはありません。電力が不足するのが時間帯限定なのであれば、むしろやみくもに時間を区切って順に停電にするよりも効果的な電力削減が可能ではないかと思われます。(輪番停電では、止めてぬるくなった冷蔵庫を再び冷やす際などに、むしろ無駄なエネルギーを使うのではないですか?)そして、健康な人たちががんばって節電して、停電を回避しさえすれば、電気があれば健やかに過ごせる人たちに無茶な負担をかけることもなくなります。

 昨年ガンで亡くなった私の父は、まだ意識がしっかりしている時にどうしても自分の家にいたいという思いが強く、そのため母が面倒を見ながら在宅看護をしていました。父は最期は病院でしたが、その前に自宅で穏やかに過ごすことができたというのは、父にとってとても大切なことだったと思います。
 肺の機能も弱っていたので、そのとき父の命を支えていたのは酸素吸入装置でした。普段は流量は少なめにしておき、少し歩いたりしてきつくなったら流量を増やして、というようなコントロールをきちんとして、なおかつ寒すぎたり暑すぎたりしないように空調がなされていれば、在宅でも問題なく(むしろ心理面の効果で病院にいるよりも元気に)生活できたのです。あまりなじみのない方には酸素吸入装置といえば酸素ボンベからの供給と思うかもしれませんが、在宅医療などで使われるのは、まわりの空気を取り込んで、そこから酸素濃度の高い空気を作り(つまり、窒素濃度の高い空気を排出して)その高酸素の空気をチューブで鼻のそばに送るという装置(酸素濃縮器)で、当然その稼働には電力が必要です。もちろん、外出時などのために酸素ボンベも用意してありますが、酸素濃縮器の方がはるかに手軽で安全でなおかつランニングコストも安いのです。

 でも、もし父が在宅で療養していた時期に、毎日何時間か停電になると言われたらどうだったか、想像しただけで恐ろしいことです。明かりのないところで、使いにくい酸素ボンベを扱わねばならず、暖をとるには石油ストーブしかない状態。(もともとエアコンしか用意していなければその時点でアウトです。) 健康な人たちが努力すれば済むのに、ただでさえつらい病人をそんな状態におく必要がどこにあるでしょう。もちろん、その場合は本人の思いとは関係なく病院に入院させるしかなくなるでしょう。でも、果たして病室の空きがあるのか。そして、そもそも病院自体が毎日非常用電源で稼働しなければならない状態になるのです。

 「弱者に負担をかける」という言い方はあまりしたくありません。父の場合は確かに身体はかなり弱っていましたが、酸素さえあれば、もしくはなんらかの電気を使う装置さえあれば、コードの届く範囲内では他の人と変わりなく活動できる人だっているでしょう。でも、時間限定であろうと「停電」を起こしてしまうというのは、その人たちのハシゴを外し、弱者ではないはずの人を弱者にしてしまう行為に他なりません。
 ツイッター上でも「電気を止めるというのは、私たちに死ねと言っているのと同じだ」というような声も見かけました。それは決して誇張ではないと思います。

 もう一つ、考えて欲しいことがあります。輪番停電の間できなくなること、やらなくなるであろうことをいろいろ想像してみて下さい。毎日どこかの時間帯で停電ということになると、例えば映画館の上映予定はどうなるのだろうか?ジムのレッスンスケジュールはどうなるだろうか?飲食店の営業時間は?そもそも停電の中家族が待っているのに飲みに行くだろうか?
 被害者のみなさんのことを思えば、そのような楽しみを我慢することなんてなんでもありません。今そういうことを想起すること自体何を不謹慎なと思う方もいるでしょう。でも、忘れてはいけないのは、そのような娯楽・サービスを利用しなくなるということは、それを提供することをなりわいとしている業種全体が壊滅的な打撃を受けるということです。
 もちろん、輪番停電でなくても最初はみんな娯楽どころではないでしょうが、被害者の方々の受けたダメージをみんなで支えながら復興していくには、経済的にも精神的にも活力が必要となります。そして、それらのサービス業は、経済的・精神的どちらの意味においても活力を支える力となるはずです。しかし、もし輪番停電が長期にわたって続くのであれば、それらの業種は全く立ちゆかなくなるのではないでしょうか。そして、毎日停電の中何時間も無為に過ごすという日々は、人々の心を暗くふさぎ込ませます。震災で苦しんだ人たちが帰ってくるべき場所が、そのような灯の消えたような場所であっていいはずはないでしょう。そうでない道があるならば、絶対にそちらを選ぶべきです。

 ただし、震災後最初の平日である今日、明日ぐらいは、節電の指針もできていない状態で予期せぬ停電のリスク回避のためにやむを得ず輪番停電に踏み切るというのは理解できます。(もちろん、それならばもっと早く決断して医療機関に十分な準備期間を与えるべきでしたし、前日の夜のドタバタは非常にまずかったですが、有事ですからそれを今言っても仕方ありません。全ての関係者の努力で停電による二次災害とならないことを祈るのみです。)ただ、なるべく早期に、停電ではなく節電をどこまでがんばれば十分に余裕をもって乗り切るだけの電力量削減が可能かを本気で検討して、それを国民全体で実現する、という方向に政府には舵を切って欲しいのです。

 これから日本に必要なのは、助け合いと団結と、復興への活力です。辛い立場の人にさらに負担をかけ、健康な人も停電時間に生活が支配され、一日の何割かを無為に過ごさねばならず、なおかつ活力を支える多くのサービス業を壊滅させる「輪番停電」は、全ての逆を向いています。でも、「みんなでがんばって節電をして、停電を回避しよう」という方向を向くことができたなら、全てはプラスに転じると思いませんか。

 ツイッターで皆が助け合っている姿を見ればわかります。今は本当に大多数の人が被害者のため、復興のために自分は何をすべきかをそれぞれの立場で考えています。少なくとも電力の問題については、必要以上に性悪説を前提としたリスクマネージメントをする必要はないでしょう。徒党を組んで電力を大量に消費する馬鹿者は出てきません。(もちろん、監視の目も働きます。)そこで国民を信用できれば、それがきっと復興への大きな第一歩になるはずです。

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スロースタート

2011年の始めは、元旦早々にノロウイルスらしきものにやられて寝込んでしまい、思いっきり出遅れてしまいましたが、あせりすぎず、歩みを止めず、穏やかかつ前向きに、健全かつ計算高く、出直しの年を生きていきたいと思います。

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再起動しましょう。

 2010年も残すところあと5時間ほど。
 今年自分の周囲で起きた様々な出来事(もしくは、起きなかった様々な出来事)について、今の自分にはまだ総括することはできません。いくつかの大きな出来事を経て、それが自分にとって価値のある体験であったと後年振り返るためには、明日以降をどう生きていくかにかかっています。
 2011年は、まずは再起動ボタンを押して、いくつかのフリーズしているジョブからCPUを解放し、効率の悪くなっているディスクの再構築をすることから始めることになるでしょう。具体的には、多分春までには引っ越します。いろいろ状況が変わっているのに、同じ固定費を払い続けることで消耗するのはやはり無理があるようです。(後半はあまり機能しなかったけど、労力もお金も思い入れもそれなりにかけて構築した環境を、大きな成果の得られないまま手放すのには、未練たらたらではあるのですが(苦笑)。) 経済的に身の丈に合った環境に移行して、余裕を作ってから、もう一度態勢を整えてリベンジです。
 生活環境を一旦大幅にグレードダウンするというのは、それはそれで勇気のいること。二度と元に戻れないのではないかという恐怖もあります。でも、全てのバックパスが消極的な意味しかないわけではないはず。ゴールへの道筋の第一歩がたまたまバックパスだっただけだと信じて、あくまでも前向きに。

 今年お世話になった方も、ならなかった方も、来年はお世話になるので覚悟しといてください。
 願わくば、世界がより大きな荒波に飲み込まれることなく、一人一人の奮闘が少しでも報われる世界であり続けんことを。

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7月総括

 気楽にツイートしているぶん、ブログの方のハードルが上がっている気がする。とりあえず、7月あたりの近況。

・W杯は日本終戦後もそこそこ見た。が、4年間待ったにしては慌ただしい中のチラ見。まあ、遠藤選手の活躍を見届けるという主たる目的は果たせたのでよしとしよう。

・7月中旬までは6月からずれ込んでいた膨大な図版作成の仕事(内職?)で死ぬ思いをする。生活のための仕事の見直しが急務なのだが、仕事に追われて仕事の作戦を練るヒマがない悪循環。

・一息ついたところで、懸案だったジム通いをボチボチ再開。体力の低下とオッサン体型から時計を巻き戻せるか?(とはいえ、また締切に対して時間的余裕がマイナスモードに入り、帰省前にもう1度行けるか微妙...。)

・血圧の薬を飲み続けているが、不規則な生活がひどくなるにつれ、改善どころか悪化の一途。生活サイクルを正常化するといっても、そもそも四半世紀以上前に東京に出てきてからまともなサイクルで生活したことなんて(サラリーマン時代も含め)一度もない気がする。が、それでもなんとかしないと。全ての悪循環はつながっている。

・老眼鏡を作る。人生初メガネ。今の携帯にしてから初めて画面がピクセル単位までクリアに見えた。読書などでは役に立ちそうだが、期待していたパソコン作業では、今のところかけたままではデメリットの方が大きそうなのが残念。完全なブラインドタッチではないので、手元が間接視野に入っていないと、非常に作業効率が落ちるのだ。必要に応じて頻繁に着脱しないといけないようで、とても面倒。

・今年見た2本目の映画はジブリの「借りぐらしのアリエッティ」。ポニョの時はさすがに劇場に足を運ぶ気はしなかったが、今回のは悪くない。そういえば「トイ・ストーリー3」がやたら評判がいいようなので、見たい気がするのだが、前作までを見ていないとどうなのだろう。帰省時に姪たちを連れて観に行くか。

 今月は10日〜20日がお盆で実家。今年はいろいろあって実家滞在時間が(それこそ状況以来最大規模に)長いのだが、帰省中に会う友人というのはいないので、人と会えるオフがほとんど確保できないのが辛い。音楽活動復帰のタイミングも逃し続けている。心が折れそう。

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涙腺決壊スイッチ

2日前の出来事。

出棺の際に、父が長年指導してきたお母さんコーラスグループの皆さんが、
やなせたかし先生の詩に父が38年前に合唱曲として作曲した「風のある街」を
1コーラスだけ歌ってくれました。

言葉と、メロディーと、
そして、少し涙声が混じりながらも、ふんばって情感をこめて
ハーモニーも崩さずに歌い上げてくれたその歌声に

一気に涙腺が決壊しました。

その曲を最初に聴いた幼少時代への憧憬と
昨日には二度と戻れないという際限のない喪失感と
そしてそのシチュエーションとともに最大限に発現された
「メロディーとハーモニー」の持つ人の心を揺さぶる圧倒的な力への無条件降伏と。

長い間覚悟が必要な状況だったため、臨終の際は泣き崩れる母の横で比較的冷静でした。数日前からほとんど言葉を話すことができず、苦痛を取るための薬で眠ったままの最期だったので、最後の言葉が聞けなかったことが心残りだったのですが、それももう諦念の彼方だと思っていました。でも、家族に、というよりも音楽を愛するすべての人に伝えたいことは、先に全部伝えていたようです。

38年前に仕掛けられた、涙腺決壊トラップ発動。
そのスイッチを忘れずに押してくれたコーラスグループの皆さんに感謝。

...一つだけ困るのは、このトラップは今後無期限で有効らしく、
   不用意にこの曲を口ずさむことが出来なくなったこと。

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帰京

今回は長丁場でした。10日も部屋を空けたのは引っ越してから初めて。
実家でのとりあえずの仕事環境が、あまりよくなかったようで、重い荷物を持って帰る今日の朝になって、激しい腰痛発動。病人の手伝いはそんなにやっていないのにこの有様は情けない限り。
ともかく今はそれぞれの立場で出来ることを出来る範囲で。

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手荷物引換証の照合は航空会社の責任だ。

 今年2度目の鹿児島。正月にも思ったのだが、鹿児島空港で手荷物を受け取る際に、手荷物引換証の番号のチェックを係員がやらない。いつからこうなったのかはわからないが、ちょっと前まではちゃんとチェックしていたはずだ。その代わりに、「お取り間違えのないよう、番号をご確認下さい」と呼びかけている。

 何か、根本的なことをはき違えてないか?

 こっちは、大事な荷物を航空会社に預けているのだ。それを受け取る際、流れてくる荷物をみな好き勝手に取って出て行くだけである。「タグのついた荷物を持って出る人はゲートで止めて引換証と番号が一致することを確認する」というのは、手荷物を預かった航空会社の最低限の責任なんじゃないのか。

 航空会社側の理屈はこんな感じなのか。「だから、貴重品は預けるなと言っている。そもそも、引換証のチェックをしても、手荷物をとってすぐタグを外してしまえばわからないのだから、盗まれるリスクは今までと変わらないだろ。取り違えの場合は、間違えた方が自分の荷物を残していくことになるから、すぐわかるし、取り違えないように注意を喚起している。」……ちがーう!
 まず、大事な物を預けるなというのは、機内持ち込み荷物の大きさ制限の厳密化と真っ向から矛盾する。別に、高価な品物や現金・カードの類だけが大事なものではない。カバンにはこれからの旅で必要なものが入っているのだ。必要なものは全て大事な物。
 引換証だけでは、もともとセキュリティとしては弱いというのはたしかにそうかも知れないが、荷物を取ってエリア内でタグを外す行為をさせないように監視するのも当然の責務であるし、少なくとも公然と置き引きをするという行為を抑止する効果は十分あるはずだ。
 取り違えに関して、注意を喚起することで責任を果たしているというのは、考え違いも甚だしい。荷物を預ける者は、あくまでも航空会社に預けているのであって、見ず知らずの不特定多数の手にゆだねたわけではないのだ。

 持ち込まれる荷物のセキュリティチェックに人員を割いているので、出て行く荷物のケアまで手が回らないということなのだろうが、何があっても外しちゃいけないところは外しちゃいけない。

 ところで、これはどこの空港でも同じ状況なのだろうか。前回帰京時には、羽田ではちゃんと係員が見ていた気がするのだが...。

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平成22年2月22日

スーパー猫の日記念その1。
てゆーか、平成になってから21年も経つってとこが驚きだ。
22年じゃない所が面倒くさい。ゼロの発見が遅すぎだよ>人類

(今気づいたのだが、もしかしてココログのアクセス解析データの更新が滞ってるのは、これと同じような日時指定の書き込みが大量に発生しているせいで処理能力を超えている?本番は午後10時22分。)

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